2013年12月30日月曜日

30-33.続御厨の六地蔵塔

30.小船庚申塚(松浦市御厨町小船免)




 御厨町でも小さな集落の小船地区の道路の分岐点に庚申塚と呼ばれている所に六地蔵さんもあります。庚申塚は砂岩のかなり大きな板碑です。こんもり盛りあがったところには椿の株立ちの下に2つの石塔はあります。昔は大木の椿の木があったのではないでしょうか。数百年の間に倒れたか、切り倒されたか、その後に芽だった株もずいぶん大きくなっています。

31.円福寺(松浦市御厨町西木場免)


 円福寺の参道の階段横にあります。このお寺もこの参道だけが昔は通り道だったでしょうが、今はぐるっと回った舗装道路が造られ、お寺参りも、車で行くのが普通になったようです。駐車場も上の本堂そばに出来ています。
 六地蔵さんには、新しい前掛けが付けてあり、近くのおばあさんによるのでしょう、花も添えられています。

32.御厨街道脇(松浦市御厨町前田免)


 
 平戸街道・御厨筋の伊万里に向かって右手、高台の古墓の藪の中に転がっていたので、起こして笠を乗せて、写真に撮りました。右側のものは竿と思い載せて見ましたが、龕部に彫られた穴が小さすぎてどうしても合いませんでした。別のものでした。
 この六地蔵さんを見つけるきっかけになったのは、「御道中図絵」という宝暦年間に出された絵図に六地蔵と書かれていたからでした。次にその部分の写真を示します。左端です。

33.七郎神社(松浦市御厨町前田免)

 ここは明治になってから神社が移され、寺やお堂は全くありません。神社の敷地には、六地蔵さんはないものと調べもしませんでしたが、こんもりとした大きな老木の下に古くて立派な六地蔵さんです。
 ここも御厨筋のすぐ傍ですから、御道中図絵にも記入されています。神社が移って来る前から、六地蔵さんは鎮座されていたのです。
 この辺りに、代官役所、札場、里村庄屋などがありますから、今も当時も御厨の中心地です。他にもあるのではなかろうかと、絵図を入念に調べましたが、田平から今福の街道筋にはこの二つ以外は見つけることができませんでした。




2013年12月23日月曜日

25-29.御厨の六地蔵塔

25.慈光寺(左)(松浦市御厨町中野免)


 御厨の港を見下ろす高台の境内に左右一対という形であります。
 この寺では、金銅如来像と無縫塔(むほうとう)が有名です。金銅如来像は朝鮮渡来のものらしいですが、昭和58年に池を掃除した際に見つかり、戦時中に金属の供出をさせられた時、池の中に隠したのだろうと言われています。無縫塔は緑泥片岩(りょくでいへんがん)製のもので、15世紀のものとしては、高度な技術によって作られたものだと言われています。


26.慈光寺(右)


 一対とは書きましたが、こちらのものには笠がありません。宝珠と思われるものが、龕部の上に載せてありますが、これでは一対になりません。
 早い時期に笠が失われたら、ここらは、潮風の強いところですから、こんなにも痛み方がひどいのかもしれません。

27.西雲寺(松浦市御厨町里免)




 ここも一字一石塔の方が大きくて立派なので有名です。
六地蔵さんも完全な形でごりっぱです。            
 

28.阿弥陀堂(右)(松浦市御厨町中野免)



 

 阿弥陀堂の一角に石仏や石碑と一緒の所の両側に、六地蔵さんは置かれています。宝珠と笠に当たるところのものは、宝篋印塔のものを載せてあります。

29.阿弥陀堂(左)


 こちらの宝珠と笠は、五輪塔(ごりんのとう)のものかも知れません。
 この阿弥陀堂の場所は里免かも知れませんが、毎年お祭りをやっている人たちが、中野地区有志で現在も続けられているとのことで、中野免としました。前田免も含めて、3地区の境界辺りにあります。
 ここのお祭りは、自安和楽(じゃんぐわら)と言って、大小さまざまな幟が一気にに先を争って、駆け下る勇壮なものだったそうです。その出発地点がこの阿弥陀堂だそうです。



2013年12月16日月曜日

23.24護舜寺

23.護舜寺参道(上)(松浦市調川町中免)





  護舜寺は調川町ではただ一つのお寺です。江戸時代の調川村には4つのお寺があったのに、明治の廃仏毀釈でこの寺だけしか残りませんでした。
 秀吉の朝鮮出兵の時に、平戸松浦藩は、3000人もの兵を出しています。そのとき、お寺の和尚(複数)も連れて行っています。当時は戦勝祈願をさせるより他に方法がなかったのでしょう。その後、護舜寺は平戸藩の手厚い庇護を受けています。この寺の石垣の上に笠石も見られます。笠石は、藩内でも重要なところでわずかに残っているだけです。

24.護舜寺参道(下)





 23と24はすぐ傍にありますが、24は宝珠、笠、中台もなく竿も本来のものとも思えません。龕部だけ、どこか別のところのものを移し替えたと思われます。
 最近どこのお寺も立派に建て替えられ、駐車場や道路の舗装もきれいにされ、その際、石仏は移動させられています。
 山門口に多くの石碑、石塔、お地蔵さん等が寄せられています。その中に、松浦市ではもっとも古いと言われる、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、この石は福井県高浜町の日引(ひびき)のものとも言われています。 



2013年12月9日月曜日

21.22.上免宮地の六地蔵塔

21.上免宮地の六地蔵塔(左)(松浦市調川町上免宮地)



 龕部、中台はともに2組あり、像は4列に刻まれています。最上段が9像、他は8像で、計33の尊像が彫刻されていて、かなり背丈が高いものです。建造年は今では全く読めませんが、坂本雅柳さんが調査された時は、天正8年(1580)と判読されています。
 地名に宮地とあり、すぐそばに、天満神社があります。今では草のあぜ道を通らなければ行けませんが、この石塔の上部一帯に、昔は「梅尾山西福密寺」があったそうです。
 地元の人の話しでは、昔は伊万里・唐津へ通じる街道があり、造り酒屋もあったとのことですから、この地方の中心地的なところだったようです。
 池向こうの小さな祠のところに石塔は立っています。

22.上免宮地の六地蔵塔(右)




 大きな六地蔵さんの右側に寄りそうように、小さなお地蔵さんがありますが、これも中台がなくなっています。やはり場所を移された時になくなったのではないでしょうか。
 
歩いて行きにくいところですが、きれいに花が飾られていて、たぶん、お年寄りのおばあさんが定期的にお参りされているものと思います。
 上の写真は、ツツジが満開の不老山公園です。徐福伝説(紀元前3世紀)があるところです。
 この不老山の山麓一帯に天正年間、1.庄野、2.高野、19.松山田、21.上免宮地の六地蔵形式多仏塔が4基建てられています。他では類を見ないのですから、松浦市の表示板の中国語表記では「高野的」とか「松山田的」とありますが、むしろ4基をまとめて「松浦形式」としてもいいようです。
 この4地区を見ると、肥沃な農地が広がっています。戦国時代となり、戦乱で荒らされ、死後の安逸を願った講衆たちが、逆修の文字を入れた六地蔵を建立したのがうなずかれます。
 不老山=徐福伝説から六地蔵塔がここにあるのは偶然だけでもなさそうな気がします。

2013年12月2日月曜日

19.20.松山田観音堂

19.松山田の六地蔵塔(左)(松浦市調川町松山田)


 地名の調川は「つきのかわ」と読みます。調川氏の領地でしたが、戦国時代につぶされています。山の上に調川城跡があるとの表示もありますが、道路は荒れ果て踏みわけ道も見つからない状態です。
 このお堂には、大きな銀杏の木の下に、記念碑や石仏も数多くあり、それぞれに、花や柴があげられて、地域の人に大事にされている様子が分かります。石塔には、竹としめ縄が残っており、お祭りの名残でしょう。  ここも六地蔵形式多仏塔と説明がついています。 龕部には3列に計33尊の彫刻があります。銘記がないので、建造年は分かりませんが、専門家の鑑定では、天正年間(1573-1591)と推定されています。


20.松山田の六地蔵塔(右)





 現在では、2基の石塔がすぐそばに並んで建てられていますが、右側のものは時代的にはかなり新しいものと見られます。別のところに建てられたものをまとめられたものかも知れません。龕部は6尊ですが、中台が欠損しているのが惜しまれます。