2014年4月28日月曜日

103-104.原分町の六地蔵塔

103.坂の下の六地蔵塔(佐世保市原分町)



 坂の下公民館の敷地の片隅に、記念碑や板碑と共に立っています。近くに古いお堂もあるのでその関係でしょう。坂の下と言う町内会の名前ですが、国道からすればずいぶん登りあがったところです。津波の被害には遭いそうもないところです。

104.坂の上墓地の六地蔵塔(佐世保市原分町)



 大きな供養塔に挟まれて、しっかりした六地蔵塔が立っています。町内会の名前の通りかなり坂を登ったところです。現在は、狭くても自動車が入って来る道路がありますから、宅地化が進み、住宅地になっています。墓地の近くには老人施設もできました。



 大きな楠の下に古い墓がありますが、新しい墓も最近建てられています。昔、耕地として利用できないところに、墓地が造られたのでしょうが、そこまで民家が上がってきているのは、佐世保らしい住宅事情を感じます。

2014年4月21日月曜日

95-102.皆瀬地区山手の六地蔵

95.中山観音堂1(佐世保市小川内町)



 皆瀬から菰田水源地へ行く道の崖下の狭い道路わきに、中山観音堂はあります。新しいお堂もでき、説明板も真新しい文字が書かれています。佐世保市制100周年を記念して整備されたとのことです。六地蔵塔は完全な形で立っています。

96.中山観音堂2



 こちらは、笠は平べったい石が載せられ、中台も紛失しています。こちらが古いものでしょう。
 ここにある古い石塔は、佐世保の戦国史で有名な赤崎伊予守の墓と伝えられています。

97.菰田水源地横の六地蔵(佐世保市菰田町)



 水源地が造られたり、道路が拡張されたりとこの辺りもずいぶん昔とは様変わりしていると思います。何度もお地蔵さんは移し替えられたと思いますが、安住の地で、前掛けをしてもらい、花や柴で飾られて安堵されていることでしょう。

98.野中阿弥陀堂(佐世保市野中町)



 野中町の地蔵前バス停から上ったところに阿弥陀堂はあります。最近、新しく家が建ち始め、新興住宅地の観があります。
 六地蔵さんは砂岩製で溶けかかっていますし、中台はさかさまのようです。

99.妙観寺跡(佐世保市牧の地町)



 皆瀬から吉井へ妙観寺経由のバス通りがありますが、妙観寺峠バス停よりはかなりかなり皆瀬寄りのところに、古い墓があり、雑木林のところは昔の寺跡と思えます。平戸にも妙観寺跡はあり、その関係は分かりません。昔の寺は草庵みたいなところで、何度も移り変わっているようです。

牧の地観音堂(佐世保市牧の地町

 牧の地(まきのじ)観音堂の奥は「牧の地牧場」があり、大きな乳牛が数百頭います。

100.

101.

102.

 ここの3基はいずれも、砂岩製で傷みが激しいものばかりです。何度も移し替えられたのでしょう。すぐ近くに、緑泥片岩製の宝篋印塔がまとまってある古い墓地もあり、妙観寺がこの辺りにあったこともあるのかも知れません。

2014年4月14日月曜日

92-94.相浦の六地蔵塔

92.心月寺跡(佐世保市相浦町)



 心月寺は洪徳寺の右隣にありましたが、明治初期に廃寺となりました。平戸松浦鎮信(法印)が相浦を軍門に下すと、三男の九郎親(くろうちかし)を養子として入れますが、家臣の東甚助といさかいを起こし、刺し違えて二人は死にました。東一党と言えば、半坂合戦で平戸方の伝育坊を打ち取ったくらいの猛者です。傀儡政権とは折り合いが悪かったのでしょう。
 宗金親が九郎親の菩提を弔うために建てたのが、心月寺だそうです。今は荒れ果てていますが、庭園跡や池などはそのまま残っています。その池の真ん中にしっかりした六地蔵塔は立っています。

 この写真、塔の下に石で造られた、亀がいます。亀趺(きふ)といい、あまり見かけませんが、古いところにたまにあります。ここは今でも竹藪となっています。このままでは埋もれてしまいそうです。

竹林寺跡1(佐世保市新田町)



 竹林寺跡はこのように多数の、五輪の塔や宝篋印塔と共に前面左右に六地蔵塔もあります。
 ここも、宗金親によって建てられたと言われていて、母親や、早世した子女も葬られたそうです。

93.六地蔵塔1



 左側のものは笠もなく、中台は宝篋印塔の、ものをあてがわれています。

94.六地蔵塔2



 右側のものは、中台がさかさまに置かれています。それにしてもこんなに込み入って配置されているのは、後世、あちこちにあった墓地のものを寄せ集められた、ということでしょう。
 この竹林寺も心月寺そして87の新豊寺も明治以降は現在の洪徳寺に統合されています。


2014年4月7日月曜日

87-91.本山付近の六地蔵塔

87.新豊寺跡1(佐世保市上本山町)



 新豊寺は中里駅裏の山手にありました。16世紀後半に相浦の洪徳寺へ移されていますが、宗家松浦に縁の深い寺でした。ですから、ここには古い墓や石塔類が残されています。
 この六地蔵塔の笠がなくなっていますが、竿石もひびが入り今にも崩れそうですが、ステンレスの針金で巻かれて何とか踏ん張っています。

88.新豊寺跡2



 こちらは右隣にありますが、笠はかぶっているけど、竿がありません。かなり古い時代のもので、単制ということは考えられません。移し替えられた時の紛失でしょう。

89.犬堂観音1(佐世保市吉岡町)




 犬堂とは、ここに鹿狩りに来ていた武士を、命に替えて大蛇から守った忠犬の物語から、この地に観音堂が建てられたと説明を受けました。しかし、果たして人間を襲うような大蛇がいたとは、眉唾ものです。

90.犬堂観音2


 
 こちらは竿がなくなっていますが、同じころのものではないでしょうか。この堂の前を通る道は平戸街道でした。地元の人は、「殿さま道」とも呼んでいます。

91.八の久保墓地六地蔵塔(佐世保市八の久保町)



 八の久保は山合いの集落で、民家は散在し、墓地もあちこち新しのから古いのまでたくさんあります。この六地蔵塔を見つけたのは、佐世保の歴史その他を毎日出されている、洗鱗荘ブログで古い供養塔を紹介された写真の中に六地蔵らしいのがあったので確かめに行き、見つけました。供養塔の部分はそのブログの記事から抜粋させてもらいました。
 ここは伝育坊の墓と言われている石碑のすぐ裏手ですが、近所の農家の人に教えてもらい、田んぼの中の小道を通ってたどり着きました。古い墓が周りにありますが、荒れたままでした。
 


 折れた板碑には文字らしいのがあるけど判読できませんが、ブログの説明では、松浦鎮信(法印)の配下として朝鮮出兵し、平壌で文禄2年(1593)に戦死した相浦城主松浦定の兵士、山奈賀源内の供養塔(1周忌に父親が建てた)だそうです。松浦定もそのとき戦死していますが、その供養塔は松浦市今福の項で述べています。
 定公の墓は、相浦の金照寺にあり、そのとき戦死した兵士7人の名簿も同寺に残っているそうです。