60.山中観音堂(平戸市山中町)
西肥バス、堂の元バス停のすぐ近くにあります。宝珠と笠がないためか、龕部がひび割れて、今にも崩れそうに傷みがひどくなっていますが、竿石に刻まれた文字ははっきり読み取れ、右側面に、寶暦八年(1758)と建造年が分かります。
61.喜宝院(平戸市下中野町)
本来建てられたところは、平戸市内の高麗(こうらい)町の智法院だそうです。ここは現在の区割りでは、戸石川町一部になっています。高麗町といえば、秀吉の朝鮮出兵の際、平戸藩が朝鮮から陶工らを連れて来て、住まわせたところです。
智法院を維持する人がいなくなり、現在の喜宝院に六地蔵さんは移されたそうです。宝珠と一体型の笠は傍に置かれていますが、かなり大きく、龕部に載せたら不安定なので、子供が触って落としたら大変だと、地べたに置かれています。
竿石は円柱で2筋模様が入っています。陶工の町にあったのでろくろを回して削ったのだろうかと思いたくなります。
62.明の川内六地蔵(平戸市明の川内町)
このお地蔵さんも何度か移動させられています。山中観音堂のものと同じところにあったそうですが、明の川内(あけのかわち)に移され、道路工事で移され、道端の現在地に安置されました。竿石はなくなり、他の古い墓石の部品が転用されています。花や柴も飾られていますが、春秋の「おめぐりさん」の時は必ず回ってこられるそうです。
63.緑が丘観音堂(平戸市岩の上町)
平戸大橋を渡り、すぐ右手の集落にあります。橋が架かり開けたところで、新しい団地などもできています。
六地蔵さんはコンクリートブロックで囲われて、両側に一体型のお地蔵さんを連れ窮屈そうにはいっています。竿石の材質が上部とかなり違うのが気になります。
58.大川原の六地蔵塔(平戸市大川原町)
この石塔は、平戸市の文化財に指定されています。建造年も確認できます。きちんとしていますが、龕部のお地蔵さんの一部が破損しています。明治の廃仏毀釈の時、破壊されたものではないでしょうか。
拓本に採ってみました。はっきりとはしませんが、左の行に「干時(ときに)天文十二年」と読めますので、1543年です。今回調査したものの中で最も古いものでした。
59.明性寺(平戸市獅子町)
明性寺(みょうせいじ)は平戸島の西側にあります。西側の集落、根獅子(ねしこ)や春日などは、隠れキリシタンの里でした。そのせいか、お堂も少なく六地蔵は明性寺だけしかありませんでした。
それにしても、このお地蔵さんには6仏それぞれに、赤い前掛けが丁寧に取り付けられて、花も飾られ大切にされています。
51.愛染堂前(平戸市岩の上町)
本堂左手の愛染堂の前にあります。最教寺は談義所とも呼ばれ、平戸藩の庇護のもと非常に広い敷地に多くの建物と、墓地があります。
52.駐車場上墓地入り口
本堂横の駐車場から右手の墓地に入るとすぐのところにあります。この六地蔵さんは、塔というよりは単制でしょう。元文5年(1740)と記されています。近くに、佐川主馬助(しゅめのすけ、平戸藩国老)の墓などがあります。
53.三重塔階段横
この階段を登ったところに、三重塔があります。この前の広場で、節分の日、子泣き相撲が行われ賑わいます。
54.個人墓地
本堂左上の個人墓地(志自岐家)にあり、きちんと整備されています。
55.追廻し墓地1
追廻し墓地に入り、ほどなく灯篭などが建てられた古い墓群の中に、写真のように、龕部をくりぬいて、火袋となった六地蔵塔があります。この形式は他では見ませんでした。
一族の人が福岡から見えていましたが、熊澤家ということで、平戸藩家老の一族の人でしょう。漢文で書かれた記念碑もあります。
56.追廻し墓地2
この追廻しの墓地は広くて、通路も行き止まりが多く全体を見て回るのは大変です。中央部あたりに、古い形式の石積みの上に六地蔵塔がおかれたものもありました。
57.追廻し墓地3
追廻しのうちでも、最も奥まったところに、立派な六地蔵塔と大きな石塔の供養塔があります。
西口松浦家の始祖、松浦信正公、代々家老職、(母親は小麦さまと呼ばれて、平戸藩初代藩主の鎮信公が秀吉の朝鮮征伐の時、連れて来て側室としています)の供養塔で、どちらにも寛永19年(1642)と記され、非常に立派なものです。
なお、坂本雅柳さんの本には最教寺に「天正3年6月(1575)正体」の六地蔵塔があるように記されていますが、まだ探し当てていません。
49.正宗寺(平戸市鏡川町)
平戸市の観光名所「寺院と教会が見える風景」、そのザビエル教会のすぐ横に、正宗(しょうじゅう)寺はあり、その境内に、この六地蔵塔はあります。竿石が円柱で灯篭を思わせます。
この寺には、平戸藩第3代藩主、松浦隆信(宗陽)公の大理石の大きな墓があります。その周りには、殉死した近習の墓も建てられています。
50.瑞雲寺(平戸市鏡川町)
瑞雲寺はザビエル教会のすぐ下にあり、観光絵葉書にも屋根瓦が写っています。この六地蔵塔の龕部と中台の間に、薄い石板があるのは珍しいものです。竿石も六角柱というのも数少ないものです。
この寺には、鎖国政策で、国外に追放された、オランダ商館長の娘コルネリアの供養塔も残されています。