2014年2月10日月曜日

51-57最教寺

51.愛染堂前(平戸市岩の上町)


 本堂左手の愛染堂の前にあります。最教寺は談義所とも呼ばれ、平戸藩の庇護のもと非常に広い敷地に多くの建物と、墓地があります。

52.駐車場上墓地入り口


 
本堂横の駐車場から右手の墓地に入るとすぐのところにあります。この六地蔵さんは、塔というよりは単制でしょう。元文5年(1740)と記されています。近くに、佐川主馬助(しゅめのすけ、平戸藩国老)の墓などがあります。


53.三重塔階段横



 この階段を登ったところに、三重塔があります。この前の広場で、節分の日、子泣き相撲が行われ賑わいます。

54.個人墓地



 本堂左上の個人墓地(志自岐家)にあり、きちんと整備されています。

55.追廻し墓地1



 追廻し墓地に入り、ほどなく灯篭などが建てられた古い墓群の中に、写真のように、龕部をくりぬいて、火袋となった六地蔵塔があります。この形式は他では見ませんでした。
 一族の人が福岡から見えていましたが、熊澤家ということで、平戸藩家老の一族の人でしょう。漢文で書かれた記念碑もあります。

56.追廻し墓地2



 この追廻しの墓地は広くて、通路も行き止まりが多く全体を見て回るのは大変です。中央部あたりに、古い形式の石積みの上に六地蔵塔がおかれたものもありました。

57.追廻し墓地3


 
 追廻しのうちでも、最も奥まったところに、立派な六地蔵塔と大きな石塔の供養塔があります。
 西口松浦家の始祖、松浦信正公、代々家老職、(母親は小麦さまと呼ばれて、平戸藩初代藩主の鎮信公が秀吉の朝鮮征伐の時、連れて来て側室としています)の供養塔で、どちらにも寛永19年(1642)と記され、非常に立派なものです。

 なお、坂本雅柳さんの本には最教寺に「天正3年6月(1575)正体」の六地蔵塔があるように記されていますが、まだ探し当てていません。


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