2014年8月4日月曜日

151-158.佐世保でも新たに発見

151.洪徳寺 (佐世保市相浦町)
 

 相浦町の古刹、洪徳寺の境内にありました。宗家松浦のお膝元ですから、砂岩ではなく安山岩と思われる石の質も良く、武士階級の人が建てたものと思われます。
   本堂前の白い砂が印象的な庭園の奥まった所に他の石仏と一緒に六地蔵塔もあります。
   竿石は6角柱で、それぞれの面に文字が彫ってあるのは分かりますが、判読することはできません。

152.川迎公民館上(佐世保市相浦町)


 ここは近くに行っても、分かりづらい所です。

 槇の木の根元に、笠、龕部、中台だけがあり、竿石と基礎がありません。龕部は安山岩と思われる立派なものです。笠はところどころ欠けた所があるのは、移動などで傷んだのではないでしょうか。竿石もあったのでしょうが、付近には見当たりません。
 この付近では、一時期、炭鉱がありその時付近はかなりいじられた跡があります。
 この六地蔵さんを見つけ出したのは、愛宕山登りを計画し、下見をしていた吉居博文さんです。相浦川の飛石を渡り、真っすぐ登る古い参道沿いの荒れた道の所です。
 
 現在も愛宕さんの祭日には、東漸寺の住職が「勝軍地蔵」を背中に背負って山頂まで登られるという道でもあります。

153.古川寺(佐世保市吉井町)


 古川寺(こせんじ)は佐々町の古川の観音堂が発祥地といわれる古いお寺ですが、現在は、新しい墓地が整備されて、新しい石塔が目立ちます。その一角に、古い坊さんの墓石などがあり、そこに六地蔵の龕部だけありますが、痛みがひどいものです。

すぐ横に、大きな自然石の三界萬霊塔があります。他の石仏も寄せられています。痛んだ木像もあります。

154.興禅寺(佐世保市黒島)
 
 
 黒島は隠れキリシタンの島として有名です。最近では、黒島の教会を世界遺産に登録しようと長崎県などは頑張っていて、観光客も教会には行ってもお寺にはあまり関心はないようです。
 しかし、キリシタンの歴史はそれほど古いものではなく、戦国時代に、平戸の所領に組み込まれています。津吉の西家が移り住んでいます。その墓地の一角に、六地蔵も慰霊塔として建てられたものと思われます。しかし、竿がないのが残念です。
 
 古い自然石の石塔は西家の先祖の墓といわれています。黒島は、「黒島御影石」の産地として、以前は高級な墓石として使われていましたが、最近はほとんど取り尽くされたのか、石屋も数少なく石の島という感じは受けません。六地蔵の石は黒島御影石とは思われず、玄武岩ではなかろうかと思われました。
 



 興禅寺(曹洞宗)境内は4月始めというのに、明るい陽の光を受けて南国の風情でした。何本もあるバナナの木には今は小さいながらも実を付けていました。食べられるくらいに成長するのではないでしょうか。
 黒島行きのフェリーは相浦港から1日3~4便出ています。現在は写真の「ニューフェリーくろしま」だけしか運行されていませんが、昨年ごろまで、「睦丸」という自動車専用フェリーもありましたが、なくなり不便になりました。
 始発便で行き、最終便で帰りましたが、予約の電話を入れたら、10日先までは、満車だと言われやむなく、自転車で行くことにしました。旧式のフェリーで大型トラックはいなかったけど、8~9台(半分は軽自動車)しか積めません。その内2台は、佐世保市のバキュームカーが毎日のように乗っているとのことでした。自転車で島内を1周した途中で、その1台が稼働中で、かぐわしい香りを発しているのに出会いました。帰りのフェリーには2台揃って乗っていたので、実働時間は11時から3時まで、昼休みを1時間とすれば、3時間しかないことになります。フェリー会社にとっては、大事な固定客のようです。
 
155.母ケ浦墓地(佐世保市母ケ浦墓地)
 

 母ケ浦(ほうがうら)町の古い墓地に、昭和48年に造られた新しい単制の六地蔵がありました。終戦後のものは初めて見ました。近くには一体型6体組の六地蔵も2組あります。
 このお地蔵さんの龕部は四角形で正面に御釈迦様が彫られていて、他の3面に2体づつ、計6体のお地蔵さんが彫られているものです。
 この墓地には古い墓も多く、謎の文字「ウハキュー」が彫られた石塔もあります。
 この石塔には享和3年(1803)と彫られています。
墓地の場所としては、峠の堀切の所で、道路建設で墓地は狭められているかも知れません。
 
156.吉岡町の六地蔵塔(佐世保市吉岡町)
 
 このお地蔵さんは岡村家の車庫兼倉庫の建物の中にあります。これを探し出したのは「洗鱗荘」ブログを書いている人です。近くに六地蔵塔があることは、古い資料等で分かっていたそうですが、見つけ出すのにはかなり苦労されたそうです。
 砂岩ですが、あまり痛んではいません。建物の中にあるからでしょうか、本来屋外にあったものを最近になってから屋内に入れられた経過があります。
 
 そばには、砂岩製の宝篋印塔もあり、どちらも柄物の前掛けが掛けられています。岡村家の場所は「馬子(まご)屋敷」と呼ばれていた所だそうです。屋内にある六地蔵塔は初めてでした。
 
157.鬼突墓地(佐世保市江迎町志戸氏)
 
 この六地蔵さんはかなり新しく、明治以降のもので、昭和ななってからのものかもしれません。単制のものを自然石に乗せてあるようです。
 

 
  桜の木の下で、苔も生えて古めかしく見えますが、中台は蓮華座で、手の込んだ彫り方がされています。
 この墓地は、森家のものです。森蘭丸は本能寺の変で討ち死にして子孫はいませんが、蘭丸の兄の子孫と言われています。
ここの地名は鬼突(おにづき、発音としてはオンヅキ)と呼ばれ、鬼が出そうな所を開墾して住み着いたとも言われています。初代の先祖の墓もすぐ近くにあります。
 
 
 
158.横尾町阿弥陀堂の六地蔵(佐世保市横尾町)
 
 
 
  横尾町も見て回りはしたものの、ここの阿弥陀堂は探せませんでした。将官岳の麓の高台です。佐世保市が、横尾町に簡易水道のコンクリートタンクを設置した所から100mほど、田んぼのあぜ道を歩いて行かなければなりません。途中に、石碑が2か所あり、円明寺跡と思われます。
 この阿弥陀堂は、佐世保新四国八十八か所めぐりの49番札所と表示されています。笠は、欠損して薄い石が載せられていて、中台は上下反対で、2石の竿は、文字が、右と左に書いてあるので、移動して立て直した時に間違ったようです。それを読むと建造されたのは、天文23年(1554)ですから、かなり古いものです。
 
以上で六地蔵塔の紹介を終わりますが、探せばまだ見つかりそうな気がします。その時は、また紹介します。
 

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