161.山中家が建てた六地蔵(松浦市福島町浅谷免)
福島町浅谷免の山中篤さん宅の裏に新しい六地蔵さんがありました。昭和20年代に建てたものですから、詳しい話を聞くことができました。篤さんの案内で、伯父さん二人(福一さんと市治さん)から六地蔵建設のいきさつを直接聞くことができました。ただ、この地区の人は「六体地蔵さん」と呼んでいます。
市治さんの母親「チト」さんが言い出して、伊万里の石工さんに造ってもらい、支払いは市治さんがしたそうです。代金は忘れたそうですがあまり高くわなかったとのことでした。
なぜここに六地蔵を建てたかというと、市治さんは祖父から聞いた話として、この辺りから人骨が出て、それは戦国時代の平戸の落人のものだと言い伝えられていたそうです。海岸の地名は「皿浦」と書いて「さるら」と今は言っていますが、この海岸一帯が血の浦と呼ばれていたことが言い伝えられているそうですが、血の「ノ」を取って皿としたとも言われているそうです。ですからこれらの落ち武者の霊を鎮めようとチトさんが言い出したのだろうということでした。この六地蔵には竿はありませんが、石を積んでその上に龕部を安置し六角形の屋根を付けてあります。木造の屋根は大工さんの市治さんが作り、板金屋がトタンを張ったとのことです。
2015年1月23日金曜日
おわりに
おわりに
1.六地蔵塔の総数(長崎県北部)
松浦から調査を始めたころ、平戸、佐世保市を含めて、長崎県北部で合計で100基を越すとは思いもよりませんでした。
松浦市 45
平戸市 43
佐々町 5
佐世保市 68
(合計 161)
この数を見たとき、佐世保市が非常に多いことに驚きます。理由としては
① 現在の佐世保市の面積は、合併を重ねた末、平戸市と松浦市を合わせた面積よりかなり広くなりました。
② 佐世保市の近郊のものには、「砂岩」製のものが多く見られます。それには、佐世保では早くから、良質の砂岩が産出しており、六地蔵塔建造が容易だったと思われます。
③ 武士階級(殿様も含めて)の建造で立派なもの、印刻もあり年代が分かり、由緒など分かりますが、数としてはほんの一握りと言えるでしょう。
④ 大半を占めるのは、農民を主体とする一般庶民の信仰から造られたものが多いと思われます。家族の突然の不幸にあったり、悪病が流行したりすると当時の人は、信仰にすがるより他に方法がなかったからでしょう。
⑤ この地方の六地蔵塔の始まりは、戦国時代からのものですから、庶民にとっても、明日はどうなるか分からない不安を抱いていたことでしょう。小さな集落であっても、みんなで労力と小銭を出し合って不安を取り除こうとしたのではないでしょうか。
⑥ 江戸時代に造られたものも多く、佐世保の小集落は城下から遠く離れていて、自分たちで造り、大切に守って来たことは、それなりに余裕があり、西海の一寒村と言われていますが、したたかに生きてきた人々のたくましさが感じとれます。
⑦ 佐世保の宮村は昔、大村藩に属していたためか、お堂もほとんどなく、六地蔵塔も見つけることはできませんでした。大村藩が、当初、キリシタン大名だったことに関係あるのでしょうか。
平戸でも、隠れキリシタンの里と呼ばれる、裏側地区にも六地蔵塔はありませんでした。
2.松浦には立派なものが目立ちます
徐福伝説がある、不老山山麓には、天正年間(1573-92)のものが、完全な形で残り、特に龕部の尊像は14体、33体、48体と非常に多く、他では見られないものが4基もあります。それらは講中で建てられたもので、「逆修」の文字もはっきりしており、豊な農地が広がっています。
文化財としては「松浦型多仏石塔」と区別するべきではないでしょうか。平戸藩内では、平戸よりも早くから開けたところですから、そんなものもあるのでしょう。
3.平戸では個人の墓地内に先祖供養のためと思われる六地蔵塔がかなり多く見られます。
4.明治維新に廃仏毀釈が行われ、神仏混淆だった所は、お寺がつぶされ、神社だけ残りました。その廃寺の後に、小さなお堂が建てられ、そこに六地蔵塔が残っているものが多数ありました。その中には、お地蔵さんの頭の部分を打ち壊した跡と思われるものもありました。
5.寺院関係では、真言宗の宗派のところに多く六地蔵塔は建てられ、現在も、春秋のお彼岸には八十八か所めぐりとして、参拝をされている所もあり(平戸、佐々)、そこでは、これらの六地蔵さんのところは必ず立ち寄られているようです。
佐世保地区では中里の東漸寺、日宇の青蓮寺がされていたそうですが、現在は、お巡りはされなくなったそうです。
浄土宗のお寺にはいくらかありましたが、浄土真宗の寺院では全く見かけませんでした。
松浦から調査を始めたころ、平戸、佐世保市を含めて、長崎県北部で合計で100基を越すとは思いもよりませんでした。
松浦市 45
平戸市 43
佐々町 5
佐世保市 68
(合計 161)
この数を見たとき、佐世保市が非常に多いことに驚きます。理由としては
① 現在の佐世保市の面積は、合併を重ねた末、平戸市と松浦市を合わせた面積よりかなり広くなりました。
② 佐世保市の近郊のものには、「砂岩」製のものが多く見られます。それには、佐世保では早くから、良質の砂岩が産出しており、六地蔵塔建造が容易だったと思われます。
③ 武士階級(殿様も含めて)の建造で立派なもの、印刻もあり年代が分かり、由緒など分かりますが、数としてはほんの一握りと言えるでしょう。
④ 大半を占めるのは、農民を主体とする一般庶民の信仰から造られたものが多いと思われます。家族の突然の不幸にあったり、悪病が流行したりすると当時の人は、信仰にすがるより他に方法がなかったからでしょう。
⑤ この地方の六地蔵塔の始まりは、戦国時代からのものですから、庶民にとっても、明日はどうなるか分からない不安を抱いていたことでしょう。小さな集落であっても、みんなで労力と小銭を出し合って不安を取り除こうとしたのではないでしょうか。
⑥ 江戸時代に造られたものも多く、佐世保の小集落は城下から遠く離れていて、自分たちで造り、大切に守って来たことは、それなりに余裕があり、西海の一寒村と言われていますが、したたかに生きてきた人々のたくましさが感じとれます。
⑦ 佐世保の宮村は昔、大村藩に属していたためか、お堂もほとんどなく、六地蔵塔も見つけることはできませんでした。大村藩が、当初、キリシタン大名だったことに関係あるのでしょうか。
平戸でも、隠れキリシタンの里と呼ばれる、裏側地区にも六地蔵塔はありませんでした。
2.松浦には立派なものが目立ちます
徐福伝説がある、不老山山麓には、天正年間(1573-92)のものが、完全な形で残り、特に龕部の尊像は14体、33体、48体と非常に多く、他では見られないものが4基もあります。それらは講中で建てられたもので、「逆修」の文字もはっきりしており、豊な農地が広がっています。
文化財としては「松浦型多仏石塔」と区別するべきではないでしょうか。平戸藩内では、平戸よりも早くから開けたところですから、そんなものもあるのでしょう。
3.平戸では個人の墓地内に先祖供養のためと思われる六地蔵塔がかなり多く見られます。
4.明治維新に廃仏毀釈が行われ、神仏混淆だった所は、お寺がつぶされ、神社だけ残りました。その廃寺の後に、小さなお堂が建てられ、そこに六地蔵塔が残っているものが多数ありました。その中には、お地蔵さんの頭の部分を打ち壊した跡と思われるものもありました。
5.寺院関係では、真言宗の宗派のところに多く六地蔵塔は建てられ、現在も、春秋のお彼岸には八十八か所めぐりとして、参拝をされている所もあり(平戸、佐々)、そこでは、これらの六地蔵さんのところは必ず立ち寄られているようです。
佐世保地区では中里の東漸寺、日宇の青蓮寺がされていたそうですが、現在は、お巡りはされなくなったそうです。
浄土宗のお寺にはいくらかありましたが、浄土真宗の寺院では全く見かけませんでした。
| 長崎県北の六地蔵塔一覧 | ||||
| 1 | 松浦市 | 志佐 | 庄野 | 天正14年(1586) |
| 2 | 志佐 | 高野観音堂 | 天正12年(1584) | |
| 3 | 志佐 | 寿昌寺1 | ||
| 4 | 寿昌寺2 | |||
| 5 | 寿昌寺3 | |||
| 6 | 寿昌寺4 | |||
| 7 | 志佐 | 赤木円成寺跡1 | ||
| 8 | 赤木円成寺跡2 | |||
| 9 | 赤木円成寺跡3 | |||
| 10 | 赤木円成寺跡4 | |||
| 11 | 志佐 | 稗木場観音堂 | ||
| 12 | 志佐 | 高野松山神社 | ||
| 13 | 志佐 | 長野不動様 | ||
| 14 | 志佐 | 田の平立岩観音 | ||
| 15 | 今福 | 文禄の役供養塔 | ||
| 16 | 今福 | 善福寺 | ||
| 17 | 今福 | 寺上入り口 | ||
| 18 | 今福 | 木場観音堂 | ||
| 19 | 調川 | 松山田観音堂1 | 天正年間 | |
| 20 | 松山田観音堂2 | |||
| 21 | 調川 | 上免宮地西福寺跡1 | 天正8年(1580) | |
| 22 | 上免宮地西福寺跡2 | |||
| 23 | 調川 | 護舜寺1 | ||
| 24 | 護舜寺2 | |||
| 25 | 御厨 | 慈光寺1 | ||
| 26 | 慈光寺2 | |||
| 27 | 御厨 | 西雲寺 | ||
| 28 | 御厨 | 阿弥陀堂1 | ||
| 29 | 阿弥陀堂2 | |||
| 30 | 御厨 | 小船庚申塚 | ||
| 31 | 御厨 | 西木場円福寺 | ||
| 32 | 御厨 | 前田街道脇 | ||
| 33 | 御厨 | 七郎神社 | ||
| 34 | 星鹿 | 星鹿浄土寺 | ||
| 35 | 星鹿 | 羽黒神社1 | ||
| 36 | 羽黒神社2 | |||
| 37 | 鷹島 | 阿翁浦観音堂 | ||
| 38 | 鷹島 | 里阿弥陀堂 | ||
| 39 | 鷹島 | 里刀の元 | 天正13年(1585) | |
| 40 | 鷹島 | 石川連乗院 | ||
| 41 | 鷹島 | 神埼阿弥陀堂 | ||
| 42 | 鷹島 | 三里今宮神社 | 文政10年(1827) | |
| 43 | 福島 | 大山百人塚 | ||
| 44 | 福島 | 浅谷観音堂 | ||
| 45 | 平戸市 | 戸石川 | 誓願寺1 | |
| 46 | 誓願寺2 | |||
| 47 | 誓願寺3 | |||
| 48 | 誓願寺4 | |||
| 49 | 鏡川 | 正宗寺 | ||
| 50 | 鏡川 | 瑞雲寺 | ||
| 51 | 岩の上 | 最教寺1 | ||
| 52 | 最教寺2 | 元文5年(1740) | ||
| 53 | 最教寺3 | |||
| 54 | 最教寺4 | |||
| 55 | 最教寺5 | |||
| 56 | 最教寺6 | |||
| 57 | 最教寺7 | |||
| 58 | 大川原 | 観音堂 | 天文12年(1543) | |
| 59 | 獅子 | 明性寺 | ||
| 60 | 山中 | 山中観音堂 | 宝暦8年(1758) | |
| 61 | 下中野 | 喜宝院 | ||
| 62 | 明川内 | 明の川内 | ||
| 63 | 岩の上 | 緑が丘観音堂 | ||
| 64 | 大久保 | 天桂寺 | ||
| 65 | 薄香 | 井戸端 | ||
| 66 | 新町 | 観音堂 | ||
| 67 | 田平 | 是心寺 | ||
| 68 | 田平 | 日の浦阿弥陀堂 | ||
| 69 | 田平 | 日の浦墓地 | ||
| 70 | 生月 | 山田地蔵堂 | ||
| 71 | 大島 | 大根坂1 | ||
| 72 | 大根坂2 | |||
| 73 | 大根坂3 | |||
| 74 | 大島 | 西福寺1 | ||
| 75 | 西福寺2 | |||
| 76 | 度島 | 本村薬師堂 | 昭和5年(1930) | |
| 77 | 佐々町 | 木場 | 観音堂1 | |
| 78 | 観音堂2 | |||
| 79 | 神田 | 延命寺 | ||
| 80 | 市瀬 | 観音堂 | ||
| 81 | 里 | 東光寺 | ||
| 82 | 佐世保市 | 中里 | 宗金親供養塔 | |
| 83 | 中里 | 中世供養塔 | 永正18年(1521)? | |
| 84 | 中里 | 観音堂跡 | ||
| 85 | 中里 | 東漸寺 | ||
| 86 | 中里 | 寄せ墓 | ||
| 87 | 上本山 | 新豊寺跡1 | ||
| 88 | 新豊寺跡2 | |||
| 89 | 吉岡 | 犬堂観音1 | ||
| 90 | 犬堂観音2 | |||
| 91 | 八久保 | 墓地 | ||
| 92 | 相浦 | 心月寺跡 | ||
| 93 | 新田 | 竹林寺跡1 | ||
| 94 | 竹林寺跡2 | |||
| 95 | 小川内 | 中山観音堂1 | ||
| 96 | 中山観音堂2 | |||
| 97 | 菰田 | 水源地 | ||
| 98 | 野中 | 阿弥陀堂 | ||
| 99 | 牧の地 | 妙観寺跡 | ||
| 100 | 牧の地 | 観音堂1 | ||
| 101 | 観音堂2 | |||
| 102 | 観音堂3 | |||
| 103 | 原分 | 坂の下公民館 | ||
| 104 | 原分 | 坂の上墓地 | ||
| 105 | 十文野 | 岡本阿弥陀堂 | ||
| 106 | 十文野 | 岡本阿弥陀堂上1 | ||
| 107 | 岡本阿弥陀堂上2 | |||
| 108 | 十文野 | 打越観音堂1 | ||
| 109 | 打越観音堂2 | |||
| 110 | 矢峰 | バス停 | 弘治元年(1555) | |
| 111 | 瀬戸越 | 泉福寺地蔵堂1 | ||
| 112 | 泉福寺地蔵堂2 | |||
| 113 | 桜木 | 山中観音堂 | ||
| 114 | 名切 | 光輪院 | ||
| 115 | 永尾 | 冨田家 | ||
| 116 | 柚木 | 三本木観音堂 | ||
| 117 | 筒井 | 墓地 | ||
| 118 | 筒井 | 野中地蔵堂 | 明治45年 | |
| 119 | 三川内 | 本町 | 文政11年(1828) | |
| 120 | 吉福 | 墓地 | 天文17年(1548) | |
| 121 | 横手 | 天満宮 | .天文期 | |
| 122 | 日宇 | 青蓮寺 | ||
| 123 | 黒髪 | 地蔵堂 | ||
| 124 | 広田 | 三島墓地 | ||
| 125 | 早岐 | 大念寺 | 大正11年(1922) | |
| 126 | 針尾 | 祇園寺 | ||
| 127 | 庵の浦 | 阿弥陀堂 | ||
| 128 | 吉井 | 正平寺跡 | ||
| 129 | 吉井 | 福井祥雲寺 | 昭和9年(1934) | |
| 130 | 吉井 | 草の尾寺跡 | ||
| 131 | 世知原 | 洞禅寺1 | 大正10年(1921) | |
| 132 | 世知原 | 洞禅寺2 | ||
| 133 | 世知原 | 開作墓地 | 元文4年(1739) | |
| 134 | 世知原 | 槍巻1 | 享保17年(1732)再建 | |
| 135 | 槍巻2 | |||
| 136 | 江迎 | 寿福寺 | ||
| 137 | 江迎 | 田の元清浄寺1 | ||
| 138 | 田の元清浄寺2 | |||
| 139 | 江迎 | 猪調観音堂 | ||
| 140 | 鹿町 | 潮音院参道 | ||
| 141 | 鹿町 | 船の村地蔵堂 | ||
| 142 | 平戸市 | 野子 | 阿弥陀寺1 | 寛政4年(1857) |
| 143 | 阿弥陀寺2 | |||
| 144 | 薄香 | 薄香観音堂 | ||
| 145 | 大久保 | 雄香寺薬師堂 | ||
| 146 | 鏡川 | 中学校グラウンド上墓地 | ||
| 147 | 同 | 寛永10年(1633) | ||
| 148 | 同 | 同 | ||
| 149 | 同 | 寛永9年(1632) | ||
| 150 | 崎方 | 松浦史料博物館 | ||
| 151 | 佐世保市 | 相浦 | 洪徳寺 | |
| 152 | 同 | 川迎公民館上 | ||
| 153 | 吉井 | 古川寺 | ||
| 154 | 黒島 | 興禅寺 | ||
| 155 | 母ケ浦 | 母ケ浦墓地 | ||
| 156 | 吉岡 | 岡村家(家屋内) | ||
| 157 | 江迎 | 鬼突墓地 | ||
| 158 | 横尾 | 阿弥陀堂(円明寺跡) | 天文23年(1554) | |
| 159 | 平戸市 | 薄香 | 富永写真館前 | |
| 160 | 生月 | 永光寺 | ||
| 161 | 松浦市 | 福島 | 山中家 | 昭和20年代 |
| 162 | 平戸市 | 鏡川 | 瑞雲寺山門横 | |
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