2.高野観音堂の六地蔵塔(松浦市志佐町高野免)
ここは志佐町から上志佐へ向かって行き、Aコープの手前から左へ上り、さらに小道を回りながら行くので、行きつくのに苦労します。3度は行ったけど、同じ道を行くことはなく、間違ってもそれほど離れていないので似たような舗装の小道を行けばたどり着きます。案内表示板もあるけど分かりにくいところです。左となりが妙見神社ですからこちらは大きくはっきりしています。
ここの石塔の特徴は何と言っても彫られた像の数多さでしょう。龕部と中台がそれぞれ2個あり、龕部には1列12像を上下に2個あるのですから合計48像の彫刻があります。その全てが着冠というか、帽子をかぶっています。お地蔵さんは坊主頭ですから、観音像と言った方がいいのかも知れません。近くを通りかかったおばあさんに高野の六地蔵と聞いたら、「ありゃー本当は観音さんばい」と説明されました。
ここも文字部を拓本にとってみました。「逆修」は分かりますが、建立年を天正十二年(1584年)と一般的には言われていますが、天正十三年と解釈している人もいます。
2013年10月28日月曜日
2013年10月21日月曜日
1.庄野の六地蔵塔
1.庄野の六地蔵塔(松浦市志佐町庄野免)
この六地蔵さんを最初にあげたのは、吉永等さん(写真の人・小佐々町の郷土史家)と鎮信鳥居を訪ね歩き、そのおり時々、六地蔵塔も見ていて、庄野のこのお地蔵さんを見て立派だナァと感心して、鳥居の次に六地蔵さんをとり上げようと決めたからです。
場所は、松浦市から福井越えをして、佐世保へ行く道の庄野バス停過ぎにあります。舗装道路に車を止めたら、数十メートル先の畑の中、こんもりと盛り上がったところ、大きな木の下、周囲の田園風景に溶け込んだすばらしいロケーションです。近づいてよく見たら竿に彫られた文字も読めます。表に「逆修(ぎゃくしゅう)」、生前に供養塔を建てることです。裏には「天正十四年・・・」西暦では1586年のことですから、400年以上も昔に建てられたものが完璧な構成でしっかりと大地に立っています。安土桃山時代というか江戸時代に移り変わる前の戦国時代に当たります。そして、長崎県の文化財にも指定されています。その説明によると「六地蔵形式多仏石塔」とあります。
龕部(がんぶ)にはお地蔵さんが上下2段にそれぞれ7体ずつ合計14体彫られています。
「九州六地蔵考」(西日本新聞社刊1979年)のなかで著者の坂口雅柳さんは逆修講衆が14名だったと説明されています。六地蔵と言いながら多いものや少ないものも見かけましたが、松浦市には多数の像が彫られたものが見られました。
この文字を見たときから「拓本」をやってみたいと思い始め、道具を買い求めてやり始めました。
うまくはできていませんが、写真よりは文字の輪郭は分かりやすいと思います。
この六地蔵さんを最初にあげたのは、吉永等さん(写真の人・小佐々町の郷土史家)と鎮信鳥居を訪ね歩き、そのおり時々、六地蔵塔も見ていて、庄野のこのお地蔵さんを見て立派だナァと感心して、鳥居の次に六地蔵さんをとり上げようと決めたからです。
場所は、松浦市から福井越えをして、佐世保へ行く道の庄野バス停過ぎにあります。舗装道路に車を止めたら、数十メートル先の畑の中、こんもりと盛り上がったところ、大きな木の下、周囲の田園風景に溶け込んだすばらしいロケーションです。近づいてよく見たら竿に彫られた文字も読めます。表に「逆修(ぎゃくしゅう)」、生前に供養塔を建てることです。裏には「天正十四年・・・」西暦では1586年のことですから、400年以上も昔に建てられたものが完璧な構成でしっかりと大地に立っています。安土桃山時代というか江戸時代に移り変わる前の戦国時代に当たります。そして、長崎県の文化財にも指定されています。その説明によると「六地蔵形式多仏石塔」とあります。
龕部(がんぶ)にはお地蔵さんが上下2段にそれぞれ7体ずつ合計14体彫られています。
「九州六地蔵考」(西日本新聞社刊1979年)のなかで著者の坂口雅柳さんは逆修講衆が14名だったと説明されています。六地蔵と言いながら多いものや少ないものも見かけましたが、松浦市には多数の像が彫られたものが見られました。
この文字を見たときから「拓本」をやってみたいと思い始め、道具を買い求めてやり始めました。
うまくはできていませんが、写真よりは文字の輪郭は分かりやすいと思います。
2013年10月14日月曜日
はじめに
六地蔵塔とは
お地蔵さんといえば、町角のどこででも見かける、と書いたところでイメージはあるけど、実際にはどこにあるのだろうと自分でも簡単には思い出せません。しかし、中年以上の方は写真のような赤い前掛け姿は容易に想像できると思います。日本で最も多い仏様はお地蔵さま(地蔵菩薩)と言われています。
六地蔵と言ったら次の写真を思い浮かべる方もおられると思います。墓地の入り口などで6体のお地蔵さんをずらっと並べたものものです。
1体型六地蔵とか六体六地蔵と呼ばれるものですが、これはあちこちで見かけるようですが、意外に少ないものです。写真のものは「高筈(たかはず)の股のぞき」で有名な佐世保市中通町から高筈を通り中里へ抜ける相浦の町が良く見える所にあります。
有名なものに江戸六地蔵というのがあります。
江戸時代、広く市中から寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に銅を鋳造して造立されたものです。1番目は東海道(品川寺)、2番目は奥州街道(東禅寺)、3番目は甲州街道(太宗寺)、4番目は中山道(真性寺)、5番目は水戸街道(霊巌寺)、6番目は千葉街道(永代寺)となっていますが、6番目のものは明治元年神仏分離令による廃仏毀釈により取り壊され、現存しませんが、他はすべて残り東京都の文化財に指定されています。
これより古いのが、京都の六地蔵です。1.奈良街道(大善寺)、2.西国街道(淨禅寺)、3.丹波街道(地蔵寺)、4.周山街道(源光寺)、5.若狭街道(上善寺)、6.東海道(徳林庵)です。
平安後期、後白河天皇が平清盛に勅命を出して、都の出入口に祀るようにしたということです。こちらは全て木像ですからきちんと堂内に納められていて、重要文化財に指定されているとのことです。
六地蔵信仰とは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に迷い苦しむ全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を巡拝することで、京都や江戸では6箇所をめぐり歩いていたということです。京都では800年以上も続いているそうです。
それでは私が探し回った六地蔵塔に話を進めます。
六地蔵石幢(せきどう)と書かれた文献もありますが簡単に「塔」で書きます。
各部の呼び名は上から
1.宝珠(ほうじゅ)
2.笠(かさ)
3.龕部(がんぶ)
4.中台(ちゅうだい)
5.竿(さお)
6.基礎
の6部があれば完全なものです。
龕部にはお地蔵さんが六体ぐるっと彫られています。ですから、1か所で6箇所めぐりの御利益があるようにとの事かも知れません。数百年を経た石材はかなり痛みがひどいものもあります。宝珠と笠が一体になったものも多くありました。竿が2本のものも多く、これらは佐賀型とも呼ばれています。石材としては砂岩、安山岩、玄武岩などその土地のものが多く使われているみたいです。中には龕部だけしか残っていないものもありましたが、これらも昔は立派な塔の形式で造られていたものとして扱いました。次回から六地蔵塔めぐりを始めます。
お地蔵さんといえば、町角のどこででも見かける、と書いたところでイメージはあるけど、実際にはどこにあるのだろうと自分でも簡単には思い出せません。しかし、中年以上の方は写真のような赤い前掛け姿は容易に想像できると思います。日本で最も多い仏様はお地蔵さま(地蔵菩薩)と言われています。
六地蔵と言ったら次の写真を思い浮かべる方もおられると思います。墓地の入り口などで6体のお地蔵さんをずらっと並べたものものです。
1体型六地蔵とか六体六地蔵と呼ばれるものですが、これはあちこちで見かけるようですが、意外に少ないものです。写真のものは「高筈(たかはず)の股のぞき」で有名な佐世保市中通町から高筈を通り中里へ抜ける相浦の町が良く見える所にあります。
有名なものに江戸六地蔵というのがあります。
江戸時代、広く市中から寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に銅を鋳造して造立されたものです。1番目は東海道(品川寺)、2番目は奥州街道(東禅寺)、3番目は甲州街道(太宗寺)、4番目は中山道(真性寺)、5番目は水戸街道(霊巌寺)、6番目は千葉街道(永代寺)となっていますが、6番目のものは明治元年神仏分離令による廃仏毀釈により取り壊され、現存しませんが、他はすべて残り東京都の文化財に指定されています。
これより古いのが、京都の六地蔵です。1.奈良街道(大善寺)、2.西国街道(淨禅寺)、3.丹波街道(地蔵寺)、4.周山街道(源光寺)、5.若狭街道(上善寺)、6.東海道(徳林庵)です。
平安後期、後白河天皇が平清盛に勅命を出して、都の出入口に祀るようにしたということです。こちらは全て木像ですからきちんと堂内に納められていて、重要文化財に指定されているとのことです。
六地蔵信仰とは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に迷い苦しむ全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を巡拝することで、京都や江戸では6箇所をめぐり歩いていたということです。京都では800年以上も続いているそうです。
それでは私が探し回った六地蔵塔に話を進めます。
六地蔵石幢(せきどう)と書かれた文献もありますが簡単に「塔」で書きます。
各部の呼び名は上から
1.宝珠(ほうじゅ)
2.笠(かさ)
3.龕部(がんぶ)
4.中台(ちゅうだい)
5.竿(さお)
6.基礎
の6部があれば完全なものです。
龕部にはお地蔵さんが六体ぐるっと彫られています。ですから、1か所で6箇所めぐりの御利益があるようにとの事かも知れません。数百年を経た石材はかなり痛みがひどいものもあります。宝珠と笠が一体になったものも多くありました。竿が2本のものも多く、これらは佐賀型とも呼ばれています。石材としては砂岩、安山岩、玄武岩などその土地のものが多く使われているみたいです。中には龕部だけしか残っていないものもありましたが、これらも昔は立派な塔の形式で造られていたものとして扱いました。次回から六地蔵塔めぐりを始めます。
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