新豊寺は中里駅裏の山手にありました。16世紀後半に相浦の洪徳寺へ移されていますが、宗家松浦に縁の深い寺でした。ですから、ここには古い墓や石塔類が残されています。
この六地蔵塔の笠がなくなっていますが、竿石もひびが入り今にも崩れそうですが、ステンレスの針金で巻かれて何とか踏ん張っています。
88.新豊寺跡2
こちらは右隣にありますが、笠はかぶっているけど、竿がありません。かなり古い時代のもので、単制ということは考えられません。移し替えられた時の紛失でしょう。
89.犬堂観音1(佐世保市吉岡町)
90.犬堂観音2
91.八の久保墓地六地蔵塔(佐世保市八の久保町)
八の久保は山合いの集落で、民家は散在し、墓地もあちこち新しのから古いのまでたくさんあります。この六地蔵塔を見つけたのは、佐世保の歴史その他を毎日出されている、洗鱗荘ブログで古い供養塔を紹介された写真の中に六地蔵らしいのがあったので確かめに行き、見つけました。供養塔の部分はそのブログの記事から抜粋させてもらいました。
ここは伝育坊の墓と言われている石碑のすぐ裏手ですが、近所の農家の人に教えてもらい、田んぼの中の小道を通ってたどり着きました。古い墓が周りにありますが、荒れたままでした。
折れた板碑には文字らしいのがあるけど判読できませんが、ブログの説明では、松浦鎮信(法印)の配下として朝鮮出兵し、平壌で文禄2年(1593)に戦死した相浦城主松浦定の兵士、山奈賀源内の供養塔(1周忌に父親が建てた)だそうです。松浦定もそのとき戦死していますが、その供養塔は松浦市今福の項で述べています。
定公の墓は、相浦の金照寺にあり、そのとき戦死した兵士7人の名簿も同寺に残っているそうです。
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