2014年3月31日月曜日

82-86.中里の六地蔵塔

82.宗金親供養塔(佐世保市中里町)


 
 佐世保に入り、最初に取り上げたのは、江戸時代の中心地である中里地区です。
 宗家松浦の16代目当主、宗金親(そうきんちかし)の供養塔と言われるものです。龕部は2段に、合計13仏が彫られて、笠と竿石は7角と珍しいものです。
 戦国時代末期、外国貿易や水軍力で次第に力を付けてきた平戸松浦が相浦の宗家松浦も飲み込んでいき、現在の佐世保(宮村は大村藩)以北、壱岐までを支配することになります。
 宗金親は大野の大智庵城で生まれ、城は落とされ、平戸の人質となりますが、忠臣たちに助け出され、有田の唐船城で育ち、相浦に飯盛城を建て復帰し、平戸方との攻防は長く続き、その間、半坂合戦(伝育坊はここで相浦方により戦死)などもありましたが、平戸からの養子を受け入れ和睦し配下に下ります。このように波乱万丈の生涯で、佐世保の戦国史の中で最も活躍した人ではないでしょうか。

83.中世供養塔(佐世保市中里町)



 中里小学校前、旧道のそばの一角に五輪の塔などと一緒に、六地蔵塔もありますが、宝珠や笠はなく、竿石もかなり傾いたままです。
 ここには、以前2基の六地蔵塔があったそうです。今あるのは、定公の兵士、井手兵十郎の供養塔を父親が建てたとの記載があったそうですが、現在では全く確認ができません。もう一つのものは、井手大和守が建てたものがあったそうです。

84.観音堂跡(佐世保市中里町)



 老人施設(あたご荘)のすぐ近くですが、周りは田んぼばかりで、あぜ道の少し広いところに、板碑などと一緒にあります。観音堂があったとは想像もつきません。
 龕部だけあるようですが、左に笠があるのですからもう少し整備して、笠を載せたら六地蔵らしく見えるでしょう。

85.東漸寺(佐世保市中里町)



 東漸寺の大きなクスノキの下にありますが、竿がなく、単制のもののようです。相浦谷88か所めぐりを主宰する寺でしたが、現在は途絶えてしまっています。

86.寄せ墓(佐世保市中里町)



 平戸街道の通り道、それも中里本陣跡(西牟田酒造)のすぐ隣です。近所のおじいさんが、古い石塔類を集め、ねんごろに供養しようと思い立ち、ここにブロックで囲いをし、お堂の基礎工事をしたところで亡くなられ、工事はストップしたままになっています。
 右奥に六地蔵さんの龕部が見えています。探せば、笠や中台、竿石もあるかも知れません。他にも緑泥片岩製の宝篋印塔など雑然と積み重ねられています。
 近くですから、もしかしたら、83で書いた井手大和守が建てたものの龕部だけかもしれません。それであれば、永正18年(1521)のものと言うことになりますが、分かりません。 

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