172.前原家の墓地
お地蔵さんというより、3体の観音さん、それも女性的な風貌で、両手を合わせた姿も細やかに彫られた小型の石像です。
三界萬霊として、供養塔として墓地に建てられています。施主は前原茂吉、茂作の両名の名前書かれていて、隣の墓地の法名塔の記載では江戸時代末期に生まれた人です。
173.松永家の墓地
松本さんら「新田観音講」の仲間6人で建てたと記載があります。近くの松本さんご夫妻の話を聞くことができました。六地蔵さんの赤いエプロンは松本さんの奥さんが毎年新しいのを付け替えているとのことでした。
木引町の墓地には164の分も含めて、近い距離に3基の六地蔵さんがありましたが、いずれも明治年間に建立された模様で、この集落では、その頃このような風習が流行ったのではないでしょうか。
2016年3月16日水曜日
2016年3月10日木曜日
170-171.平戸・墓地入り口
平戸市岩の上町の墓地
松浦家ゆかりの家や上級士族の墓地が、武家屋敷があったと思われる広い屋敷跡の上の段に、あまり訪れる人もいないらしく、ひっそりと古い墓が並んでいます。その一番奥に、今井家の墓地が一区画あり、その入り口に両側に一対の六地蔵塔があります。
170.
左側のは中台がありません。
171.
右側のは全部そろっていますが、左右一対に建てたとは思えなく、何か違和感を感じます。古い墓地には、こうした六地蔵塔はよく見かけました。
本を出版した時点(2014年7月)では、長崎県北部では、154基の六地蔵塔しか見つけ出していませんでしたが、その後、吉永等さんや洗鱗荘ブログのおかげで次々と新しい発見があり、170基を突破しました。今後も見つけ次第追加していきます。
松浦家ゆかりの家や上級士族の墓地が、武家屋敷があったと思われる広い屋敷跡の上の段に、あまり訪れる人もいないらしく、ひっそりと古い墓が並んでいます。その一番奥に、今井家の墓地が一区画あり、その入り口に両側に一対の六地蔵塔があります。
170.
左側のは中台がありません。
171.
右側のは全部そろっていますが、左右一対に建てたとは思えなく、何か違和感を感じます。古い墓地には、こうした六地蔵塔はよく見かけました。
本を出版した時点(2014年7月)では、長崎県北部では、154基の六地蔵塔しか見つけ出していませんでしたが、その後、吉永等さんや洗鱗荘ブログのおかげで次々と新しい発見があり、170基を突破しました。今後も見つけ次第追加していきます。
2016年3月7日月曜日
169.平戸市職人町
169.道路沿い、駐車場横
この六地蔵さんは、笹や草木がかぶっていたので刈り取ってから写真を撮りました。
ここは職人町とはいっても、大工町、紺屋町、桶屋町などからは少し離れたところで、お堂は見当たりませんが、昔はお堂などがあったのかも知れません。
この六地蔵さんは、笹や草木がかぶっていたので刈り取ってから写真を撮りました。
ここは職人町とはいっても、大工町、紺屋町、桶屋町などからは少し離れたところで、お堂は見当たりませんが、昔はお堂などがあったのかも知れません。
2016年3月6日日曜日
168.玉の森神社参道
168.玉の森神社(平戸市戸石川町)
平戸の町中、誓願寺と本成寺の間の玉の森神社という小さな祠に行く途中にありました。
すぐそばの家の人の話では、道路工事をしたとき、今のように整備されたとのことで、半分は土の中に埋もれていたのではなかろうかと思われるように、龕部の上下では色が違っていますが、彫られたお地蔵さんはきちんと繋がります。
それにしても、この笠は別のものをあてがわれています。横には小さい仏像もコンクリートで固められているので、ここを工事した業者は、信心深いか、縁起を担いだのか仏像を大切に扱ったようです。
平戸の町中、誓願寺と本成寺の間の玉の森神社という小さな祠に行く途中にありました。
すぐそばの家の人の話では、道路工事をしたとき、今のように整備されたとのことで、半分は土の中に埋もれていたのではなかろうかと思われるように、龕部の上下では色が違っていますが、彫られたお地蔵さんはきちんと繋がります。
それにしても、この笠は別のものをあてがわれています。横には小さい仏像もコンクリートで固められているので、ここを工事した業者は、信心深いか、縁起を担いだのか仏像を大切に扱ったようです。
166-167.平戸24番札所
166.平戸市岩の上町24番札所
最教寺の入り口近くで、細い路地を隔てて、職人町の公民館があり、その前にお堂があり、古い井戸もあり古い井戸端に火袋が彫られた六地蔵さんとはいえ実際にはお地蔵さんは4体しかありません。この横にももう一体六地蔵さんがあります。
167.
光背を持つお地蔵さんの下に六地蔵さんが刻まれています。こんな六地蔵に出会ったのは初めてです。しかも、丸い穴を掘りかけた途中みたいなものです。
偶然なことから松浦家の分家の松浦鈴子さん(平戸藩の普門寺跡にお住まいです、現在の普門寺は明治の初めに木ケ津に移っています)にお会いしてお話を聞くことができました。鈴子さんのおじいさんの三輪直次郎さんという人がここいらのお地蔵さんを造られたとのことです。大変器用な人だったので、石工に頼んだのかも 知れないけれど、自分で彫ったのかも知れないとのことです。他にも、作っていたのが平戸藩が松浦水軍として活躍していた昔、軍船の航海上必要な風の方向や強弱を、凧の上につけた「藤カズラ」のうなり音の強弱で知るために揚げていたのが「鬼ようちょう」と呼ばれるこの凧でした。
独特のこの絵柄は、大江山の酒呑童子の鬼を退治した平戸松浦藩主の祖先の渡辺綱の武者絵が描かれています。この鬼ようちょうは平戸の物産館では土産物用に、飾られて販売されていました。この凧作りの第一人者だった三輪義人さんは三輪直次郎さんの孫で、鈴子さんのいとこです。私が江迎にいたころ三輪義人さんとは何度か話をしていて、偶然の出会いから不思議な縁を感じました。三輪義人さんはすでに亡くなられたそうで、鬼ようちょうが土産店でも見かけなくなりました。
この三輪義人さんも大変器用な人で、自宅をブロックやコンクリートで何年もかけて一人で造っていました。その後完成して住んでおられました。
最教寺の入り口近くで、細い路地を隔てて、職人町の公民館があり、その前にお堂があり、古い井戸もあり古い井戸端に火袋が彫られた六地蔵さんとはいえ実際にはお地蔵さんは4体しかありません。この横にももう一体六地蔵さんがあります。
167.
光背を持つお地蔵さんの下に六地蔵さんが刻まれています。こんな六地蔵に出会ったのは初めてです。しかも、丸い穴を掘りかけた途中みたいなものです。
偶然なことから松浦家の分家の松浦鈴子さん(平戸藩の普門寺跡にお住まいです、現在の普門寺は明治の初めに木ケ津に移っています)にお会いしてお話を聞くことができました。鈴子さんのおじいさんの三輪直次郎さんという人がここいらのお地蔵さんを造られたとのことです。大変器用な人だったので、石工に頼んだのかも 知れないけれど、自分で彫ったのかも知れないとのことです。他にも、作っていたのが平戸藩が松浦水軍として活躍していた昔、軍船の航海上必要な風の方向や強弱を、凧の上につけた「藤カズラ」のうなり音の強弱で知るために揚げていたのが「鬼ようちょう」と呼ばれるこの凧でした。
独特のこの絵柄は、大江山の酒呑童子の鬼を退治した平戸松浦藩主の祖先の渡辺綱の武者絵が描かれています。この鬼ようちょうは平戸の物産館では土産物用に、飾られて販売されていました。この凧作りの第一人者だった三輪義人さんは三輪直次郎さんの孫で、鈴子さんのいとこです。私が江迎にいたころ三輪義人さんとは何度か話をしていて、偶然の出会いから不思議な縁を感じました。三輪義人さんはすでに亡くなられたそうで、鬼ようちょうが土産店でも見かけなくなりました。
この三輪義人さんも大変器用な人で、自宅をブロックやコンクリートで何年もかけて一人で造っていました。その後完成して住んでおられました。
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