2013年11月25日月曜日

15-18.今福の六地蔵塔



15.文禄の役供養塔(松浦市今福町東免)



 豊臣秀吉が朝鮮征伐として、大名たちに出兵させた折、平戸松浦家から3000人もの兵を出しています。7年間にもわたる戦いですから、最初の快進撃は勝ち戦でしたが、しまいには反撃に会い戦死者を多数出しています。
 確かに、松浦家の御大将、親子(鎮信・久信)も参戦していますが、無傷で帰ってきています。それに比べると、本家筋の今福(松浦定)や志佐(純高)は戦死しています。いつの時代も、権力者は後陣に居て、配下を最前線に出していたのでしょう。志佐から900人の兵を出したとの記録もありますから、かなり無理をさせられていたようです。
 こんな訳で、この文禄の役(1593年)で戦死した後、供養塔が建てられ、六地蔵塔も建てられています。



 16.善福寺(松浦市今福町仏坂町)






 ここの六地蔵塔は他の石碑や石仏と崖下に金網で仕切られた狭いところに並べられているので、写真に収めるのに苦労しました。赤い前掛けが印象的でした。
 この寺では軒に吊るして打ちならす青銅製の鰐口(わにぐち)が1355年のものとして有名だそうです。
 この辺りの地名が、仏坂(ほとけざか)といい、付近には寺や墓地がたくさんあります。

17.寺上入り口(松浦市今福町寺上免)




仏坂からかなり登った寺上(てらげ)地区の道脇にぽつんと立っています。宝珠が見当たりませんが、他は大丈夫です。道路工事のためにかなり移動させられたのではないでしょうか。

18.木場観音堂(松浦市今福町木場免)




 寺上よりさらに上った集落、木場にあります。最近工事をしたのではないでしょうか。観音堂も倉庫みたいな作りで、付近の整地作業も終わっていない感じです。六地蔵さんの基礎もしっかりやってもらわないと倒れそうな感じです。
 かなり山の上ですが、水の便が良いのでしょう。水田も多く豊な感じがするところでした。




2013年11月18日月曜日

11-14.上志佐の六地蔵塔

11.稗木場の観音堂(松浦市志佐町稗木場免)



 
 上志佐の稗木場、道路わきの石段を数段上った観音堂境内にあります。ほぼ完全な六地蔵塔です。宝珠と笠が一体型か宝珠がなくなったのかよく分かりません。竿石は1本だけで基礎がしっかりしています。

12.松山神社(松浦市志佐町高野免)




 下高野の松山神社と一般に言われていますが、この神社の御神体は木像8体の他に懸仏(かけぼとけ)2面が奉納されていたというのですから、神仏混淆の最たるものだったのでしょう。江戸時代には「本光寺」が同じ境内にあり、明治の廃仏毀釈により廃寺となり今は小さなお堂が建てられその前に、五輪の塔や一体型のお地蔵さん等がまとめられています。
 この六地蔵は竿がなく単制とも見えますが、重制の竿石が紛失したものと思われます。

13.長野不動様(松浦市志佐町長野免)



 ここと次の立岩観音は松浦市の郷土史家、松永泰麿(やすまろ)さんに場所を教えていただきました。
 
 長野公民館の裏手の高段にある地元の人が、不動様と呼んでいるお堂の横にあります。車で道路を走っていては見つけることはできません。長野の集落はかなり広い範囲ですが、公民館とお堂があるのですから中心地になりそうです。この六地蔵さんは完全な形で残っていますが、銘記がなく建造年が分かりません。

14.立岩観音(松浦市志佐町田の平免)




 この観音堂を見つけるのは随分手間取り、急勾配の坂を下りやっと見つけることが出来ました。
 田の平地区は上志佐から竹の古場経由で伊万里へ行く山道の県境の集落です。四輪駆動の軽トラックでやっと行ける道で、まさに秘境という言葉がぴったりなところです。お堂の中には立派な尻尾のテンがわがもの顔に住んでいました。
 下写真の立岩の滝があり、そこへ観音堂が建てられていて毎年お祭りがされているとのことです。昔は多かったそうですが、今では30戸ほどで午前中に参道(舗装のない坂道)の草刈り、補修を行い、午後から堂内でなおらい(神事の後、飲んだり食ったりすること)をするとのことでした。
 今は近くまで車が行けるけど、江戸時代には人力だけで運んだのですから、大変な苦労があったことでしょう。滝の下には小川が流れていて、それに沿った階段などもあり昔使っていた道跡と思えますが、今は全く使われず荒れ果てていました。
 六地蔵さんは自然石の上に固定されていて、立派なお姿でした。


2013年11月11日月曜日

7-10.円成寺跡

円成寺跡(松浦市志佐町赤木免)


 昔の上志佐村には同じ宗派の「無量寺」と「円成寺」があり、どちらも江戸時代には志佐・上志佐を転々としています。
 明治4年に無量寺は廃寺となりますが、その跡に円成寺が移ってきています。現在、同寺がある松浦市志佐町浦免、松浦市の中心地です。ここの駐車場が狭くなり、拡張された時、六地蔵塔はこの赤木免の墓地(跡)に移されています。
 上写真の説明板が松浦市によって立てられましたが、一部誤りが見受けられます。前出の坂本雅柳さんが昭和40年代に調べられたときには、4基あると記されています。3基とはおかしいと何度も行って調べました。仏像の盗難騒ぎも以前は良くあったので、盗まれたのかもしれないと考えたこともあります。よくよく見たら、4基ありました。坂本さんの年代順に記します。

7.円成寺跡六地蔵塔①


 上段に頭光、着冠の7仏、下段に着冠の6仏、13仏が龕部に刻まれています。
 建立年は分かりませんが、天正期のものだと専門家は見ています。かなり古いものですが、笠がきちんとあるせいか、像容もはっきりしています。残念ながら中台や竿がありません。

8.円成寺跡六地蔵塔②


 龕部は7仏です。実はこの龕部の上に、④の龕部が載せられていて、1基と数えられていたようです。
 石の質、色が全く違います。時代も違うでしょう。
 平成になってから、浦免の寺からここへ移された時、笠が3基分しかないので、龕部2基を重ねて笠1つで済ませたのでしょう。

9.円成寺跡六地蔵塔③


 
 これは六地蔵さんです。このお地蔵さんの笠は非常に珍しいものだそうです。網代笠といって、禅宗の修行僧がこの笠をかぶって、托鉢に出かける時のものらしいです。
 それにしても、ここの六地蔵さんには全て竿がありません。寺地が何回も移り、六地蔵さんもさんざんあっちこっちと移動させられています。どこかでなくなったのでしょうが、石垣などにはめ込まれているかも知れませんね。

10.円成寺跡六地蔵塔④


 坂本さんは、九州の六地蔵さんを1000以上探し回られたそうですが、他で全く見かけられないものがあったと述べられています。上の写真でおわかりと思いますが、腕(肘)が4本あります。これを専門家は四臂(よんぴ)と呼んでいます。熟語では八面六臂(はちめんろっぴ)とか、奈良興福寺の国宝「阿修羅像」は三面六臂でとても有名になりました。                           

 福岡の博物館では客が多すぎて、駐車場に車も止められず、ついに見ることはできませんでしたが、奈良に行ったときは、国宝館にスムーズに入れました。この仏像の前は人気があり、渋滞していました。



2013年11月4日月曜日

3-6.寿昌寺

寿昌寺(松浦市志佐町里免)
 
 寿昌寺は古くは安倍宗任の屋敷があったところで、「陣ノ内城跡」とも言われています。戦国時代は志佐氏の居城となり、秀吉の朝鮮出兵の時、ここから志佐純高公(朝鮮で戦死)が出陣しました。
 松浦市の中心地にあり、城構えとしては大きくありませんが、志佐氏が福井に城を移した後は、出城として使われたそうです。

3.(山門下左)六地蔵塔   



 
4.(右)六地蔵塔

 この2つの石塔は同じ形で、文字らしいものも見えますが、今となっては全く判読できません。1対同じころ建てられたものでしょう。現在は、アスファルト舗装された中にありますが、かなり幅が広いので最初のものを移動したことも考えられます。

5.(鐘楼横左)六地蔵 


6.(右)六地蔵

 
 境内の鐘楼横には、お地蔵さんや五輪の塔など10基ばかりの石仏が安置されていますが、新しく石垣を組んで、その上にあちこちにあったものを集めたいわゆる「よせもの」と見えます。
 特に、左側のものは追加の石垣の上にありますから、他のものより後になってここへ移されたものでしょう。
 この2つは石塔というよりは、今まで出てきた重制(宝珠、笠、龕部、中台、竿、基礎からなるもの)ではなく、単制(龕部から上だけのもの)の六地蔵という感じもしますが、本来は重制のもので、移動などにより、竿部などが失われたものと考えられます。