龕部、中台はともに2組あり、像は4列に刻まれています。最上段が9像、他は8像で、計33の尊像が彫刻されていて、かなり背丈が高いものです。建造年は今では全く読めませんが、坂本雅柳さんが調査された時は、天正8年(1580)と判読されています。
地名に宮地とあり、すぐそばに、天満神社があります。今では草のあぜ道を通らなければ行けませんが、この石塔の上部一帯に、昔は「梅尾山西福密寺」があったそうです。
地元の人の話しでは、昔は伊万里・唐津へ通じる街道があり、造り酒屋もあったとのことですから、この地方の中心地的なところだったようです。
池向こうの小さな祠のところに石塔は立っています。
22.上免宮地の六地蔵塔(右)
大きな六地蔵さんの右側に寄りそうように、小さなお地蔵さんがありますが、これも中台がなくなっています。やはり場所を移された時になくなったのではないでしょうか。
歩いて行きにくいところですが、きれいに花が飾られていて、たぶん、お年寄りのおばあさんが定期的にお参りされているものと思います。
上の写真は、ツツジが満開の不老山公園です。徐福伝説(紀元前3世紀)があるところです。
この不老山の山麓一帯に天正年間、1.庄野、2.高野、19.松山田、21.上免宮地の六地蔵形式多仏塔が4基建てられています。他では類を見ないのですから、松浦市の表示板の中国語表記では「高野的」とか「松山田的」とありますが、むしろ4基をまとめて「松浦形式」としてもいいようです。
この4地区を見ると、肥沃な農地が広がっています。戦国時代となり、戦乱で荒らされ、死後の安逸を願った講衆たちが、逆修の文字を入れた六地蔵を建立したのがうなずかれます。
不老山=徐福伝説から六地蔵塔がここにあるのは偶然だけでもなさそうな気がします。
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