2014年3月17日月曜日

70-76.平戸の離島の六地蔵

70.生月山田地蔵堂(平戸市生月町山田免)


 生月には橋が架かったので、離島という感じはしません。以前は割高な通行料金を払っていましたが、今は無料となりました。
 江戸時代初期には島民はほとんどキリシタンになった歴史もありますが、幕府の弾圧が厳しくなり、仏教徒へ改宗させられています。しかし、隠れキリシタンとして生き続けた人たちもいて、「オラショ」とかいう、生月だけにしかない、数百年の口伝えの言葉も意味も分からない念仏が、最近まで伝えられていました。
 そのせいか、お堂も少なく、お地蔵さんも少ないようです。

71-73.大根坂六地蔵(平戸市大島村大根坂)

 大島という島は全国で200以上あると聞いたことがあります。この大島は「的山(あずち)大島」といわれます。島の中でも、昔は貧しい集落と言われていた、大根坂(おおねさか)集落にあります。島民1200人と言われる島に現在、お寺は神浦(こうのうら)地区に4、的山地区に2と6寺あります。この六地蔵塔の辺りに草庵らしいものがあったらしく、井戸跡らしいものがあります。
 最近2度、フェリーで車を渡して的山大島を回りましたが、全体的に衰退している島の中では、この大根坂地区は元気がよいように見えました。土地の人に聞いたら、漁業も農業も若いものの後継者が大根坂にはいるとのことでした。

71.

72.
73.

74.西福寺(平戸市大島村前平)


 この寺は神浦地区にありますが、前平免になります。古くて大きなお寺です。郷土史家の米村さんに案内してもらったので分かりました。階段横に、古い石塔類が雑然と置かれている中の、奥にありました。手前の石を移して写真を撮りました。龕部と中台だけしかありません。

75西福寺個人墓地


 西福寺の墓地の高台、港を見下ろ所に立っていました。御影石製の大きくて立派なものです。建造年は新しそうです。「井元家」の墓地内にあります。
 江戸時代の捕鯨は生月が有名ですが、平戸藩では生月よりも的山大島が古く、井元家といえば、元祖鯨組の元締めです。その子孫のお墓ではないでしょうか。


76.度島の六地蔵(平戸市度島町)



 度島に行くのは船しかありません。平戸桟橋でフェリーの待ち時間に、案内地図がほしくなり、案内所に行ったら、度島の地図はないとのことでいた。それまでも、度島には、食堂もなければコンビニもない、弁当持参でなければどうにもならないとの話を聞かされていました。狭い島なので、自転車で十分と思いフェリー代金を節約しまし、桟橋にあった看板の地図をデジカメに撮りました。
 高校の頃の「度島丸」からすれば、ずいぶん大きくて、199トンと書いてありました。船室は1階と2階にあり、見事に分かれていました。1階は床で、すべて女性、しかも年配者が多く、2階は、椅子席で男ばかりですが、家族連れの中に少し女性も交じっていました。

 六地蔵さんのことは何も予備知識はなかったので、船の中で聞こうと思ってたので、両方の部屋を見た後、1階に戻りました。変なのが入って来たと視線が集まるのを感じましたが、他で撮っていた、六地蔵の写真を見せて、聞き始めたら、長老格の人が六地蔵はあるけど、1つだけだとのことでした。その他のこともいろいろくわしい話を聞かせてもらいましたが、よく分からないことが多かったようです。
 最初に着いた飯盛港で自転車を下し、聞いた通り、本村(ほんむら)の銀杏の木の下の薬師堂を目指しました。あまりに近いので、通り過ぎて戻ったりしました。
 写真のように単制の六地蔵さんで、台座には寄進者の名前と昭和5年と年号がありました。
 桟橋で撮った写真には、島内の名所が数か所ありますが、案内板も道案内も全くありません。全くその必要がないことが分かりました。雨が降って来たので本村港の待合所で持ってきた弁当を食べましたが、そこで、たばこを吸いに来た配達で回っている局員と話をしましたが、転勤で来たらしく、地図にある名所に行きつくのにはかなり苦労したとの話でした。島には民宿が1軒あり、予約制になっているそうです。雨の中、他に行くところもなく、1便早い船で平戸に戻りました。

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