113.山中観音堂(佐世保市桜木町)
桜木町バス停近くの、お地蔵さんは非常によく目につきます。赤い前掛けの他に腰巻(?)それに小さい一体型のお地蔵さんには赤い前掛けと帽子まで付けてあります。
龕部もこれまで見た中では最も大きなもので、7仏が彫刻されています。
現在の町名は「桜木町」ですが、佐世保村のころは山中免でした。明治35年に佐世保村が一足飛びに佐世保市になる時、山中免(桜木町、春日町)と横尾免(横尾町)、熊ケ倉免(赤木、田代町)などが市制に反対して、「佐世村」(東彼杵郡)となり、佐世保市はこの一部地区を分離して市制をひきました。
当時は佐世保の外れだったのが、今では中心地と言えるところです。
114.光輪院(佐世保市名切町)
名切グラウンドから坂道を登ると、光輪院というお寺があります。その入口の外、道路沿いに、きっちりとした六地蔵塔があります。年代が彫られていないので、分かりませんが、明治以降、大正の頃のものではないでしょうか。
115.冨田家(佐世保市長尾町)
個人のお宅の庭に、珍しい石造物十数個と一緒にあります。
冨田家は天正14年(1586)三川内の井手平城で討ち死にした岡甚右衛門の三男が武門を嫌って、早岐で商売を始め、その子孫は、佐世保浦で酒造業を営み繁昌して、見晴らしの良い、長尾町には別荘として建てられたものだそうです。酒造場は昭和20年の佐世保空襲で焼け、出荷を待っていた特級酒「烏帽子正宗」などが、佐世保川を炎をあげて燃えながら流れたそうです。
この別荘付近にも、焼夷弾は落ちたそうですが、直撃を免れ、現在も残っています。この六地蔵塔は現当主の祖母に当たられる方が、明治年間に建てられたそうですから、像容もはっきりしています。
なお、岡甚右衛門の子孫として、武門を継いだ方の人は、佐世保市内で「岡歯科」医院をされています。明治になる直前、平戸藩の郡代役所が、中里から佐世保へ移されますが、その場所に近いところです。
2014年5月19日月曜日
2014年5月12日月曜日
110-112.瀬戸越方面の六地蔵塔
110.矢峰バス停の六地蔵塔(佐世保市矢峰町)
国道筋、矢峰バス停にあり、赤い前掛けは、まるで腹巻をしているように目立ちます。がっしりとして完全に揃い、コンクリートで基礎は固められています。近くの少し高いところから移されたと言われています。82と同じく、宗金親の供養塔と言われています。 宗金親は、瀬戸越の大智庵城で生まれて数奇な生涯を送っていますので、生地が見えるところに供養塔が建てられたのでしょうか。付近の人のお参りが絶えないようです。
111.泉福寺地蔵堂1(佐世保市瀬戸越3丁目)
この地蔵堂の奥に、泉福寺洞窟遺跡があります。旧石器時代からの遺跡が発見され、日本史に書き加えられました。特にここで発見された「豆粒文(とうりゅうもん)土器」は世界最古とも言われています。
112.泉福寺地蔵堂2
こちらは竿石が欠損しています。この付近に昔、泉福寺と言う寺があったそうですが、場所は特定していないようですが、泉福寺と言う地名は残りました。裏山の岩盤には観音様やお地蔵さんが、彫られていたそうですが、道路拡張のため像の部分だけ切り取られ、お堂に展示されています。
国道筋、矢峰バス停にあり、赤い前掛けは、まるで腹巻をしているように目立ちます。がっしりとして完全に揃い、コンクリートで基礎は固められています。近くの少し高いところから移されたと言われています。82と同じく、宗金親の供養塔と言われています。 宗金親は、瀬戸越の大智庵城で生まれて数奇な生涯を送っていますので、生地が見えるところに供養塔が建てられたのでしょうか。付近の人のお参りが絶えないようです。
111.泉福寺地蔵堂1(佐世保市瀬戸越3丁目)
この地蔵堂の奥に、泉福寺洞窟遺跡があります。旧石器時代からの遺跡が発見され、日本史に書き加えられました。特にここで発見された「豆粒文(とうりゅうもん)土器」は世界最古とも言われています。
112.泉福寺地蔵堂2
こちらは竿石が欠損しています。この付近に昔、泉福寺と言う寺があったそうですが、場所は特定していないようですが、泉福寺と言う地名は残りました。裏山の岩盤には観音様やお地蔵さんが、彫られていたそうですが、道路拡張のため像の部分だけ切り取られ、お堂に展示されています。
2014年5月5日月曜日
105-109.十文野の六地蔵
105.岡本阿弥陀堂(佐世保市十文野町)
十文野と書いて「ともんの」と読みます。皆瀬地区の山手になります。明治の初めには、皆瀬地区の中心地として、最初の小学校が始まったところだそうです。
岡本阿弥陀堂の傍らに石像らしいのが葛にうもれてみえたので、取り除いたら、六地蔵さんの龕部だけありました。
106.岡本阿弥陀堂の上1
107.阿弥陀堂の上2
岡本阿弥陀堂の上の畑のあぜ道に2基並んでありました。106は正体ですが、107は笠も中台もなく、龕部のお地蔵さんの像もかなり流れています。なぜここにあるのか分かりません。
108.打越観音堂1(佐世保市十文野町)
109.打越観音堂2
十文野公民館のそばに打越(うちこし)観音堂は新しく建てられています。この二つのお地蔵さんは龕部だけで、落ち葉に埋まるようにしてありました。笠を載せるための凸があるので、周りを探しても見つかりませんでした。竿石もあったと思います。
これらのところには、相浦谷、新四国88か所めぐりの札が掛けられていますが、近頃では、このおめぐりさんは全く行われていないそうです。
2014年4月28日月曜日
103-104.原分町の六地蔵塔
103.坂の下の六地蔵塔(佐世保市原分町)
坂の下公民館の敷地の片隅に、記念碑や板碑と共に立っています。近くに古いお堂もあるのでその関係でしょう。坂の下と言う町内会の名前ですが、国道からすればずいぶん登りあがったところです。津波の被害には遭いそうもないところです。
104.坂の上墓地の六地蔵塔(佐世保市原分町)
大きな供養塔に挟まれて、しっかりした六地蔵塔が立っています。町内会の名前の通りかなり坂を登ったところです。現在は、狭くても自動車が入って来る道路がありますから、宅地化が進み、住宅地になっています。墓地の近くには老人施設もできました。
大きな楠の下に古い墓がありますが、新しい墓も最近建てられています。昔、耕地として利用できないところに、墓地が造られたのでしょうが、そこまで民家が上がってきているのは、佐世保らしい住宅事情を感じます。
坂の下公民館の敷地の片隅に、記念碑や板碑と共に立っています。近くに古いお堂もあるのでその関係でしょう。坂の下と言う町内会の名前ですが、国道からすればずいぶん登りあがったところです。津波の被害には遭いそうもないところです。
104.坂の上墓地の六地蔵塔(佐世保市原分町)
大きな供養塔に挟まれて、しっかりした六地蔵塔が立っています。町内会の名前の通りかなり坂を登ったところです。現在は、狭くても自動車が入って来る道路がありますから、宅地化が進み、住宅地になっています。墓地の近くには老人施設もできました。
大きな楠の下に古い墓がありますが、新しい墓も最近建てられています。昔、耕地として利用できないところに、墓地が造られたのでしょうが、そこまで民家が上がってきているのは、佐世保らしい住宅事情を感じます。
2014年4月21日月曜日
95-102.皆瀬地区山手の六地蔵
95.中山観音堂1(佐世保市小川内町)
皆瀬から菰田水源地へ行く道の崖下の狭い道路わきに、中山観音堂はあります。新しいお堂もでき、説明板も真新しい文字が書かれています。佐世保市制100周年を記念して整備されたとのことです。六地蔵塔は完全な形で立っています。
96.中山観音堂2
こちらは、笠は平べったい石が載せられ、中台も紛失しています。こちらが古いものでしょう。
ここにある古い石塔は、佐世保の戦国史で有名な赤崎伊予守の墓と伝えられています。
97.菰田水源地横の六地蔵(佐世保市菰田町)
水源地が造られたり、道路が拡張されたりとこの辺りもずいぶん昔とは様変わりしていると思います。何度もお地蔵さんは移し替えられたと思いますが、安住の地で、前掛けをしてもらい、花や柴で飾られて安堵されていることでしょう。
98.野中阿弥陀堂(佐世保市野中町)
野中町の地蔵前バス停から上ったところに阿弥陀堂はあります。最近、新しく家が建ち始め、新興住宅地の観があります。
六地蔵さんは砂岩製で溶けかかっていますし、中台はさかさまのようです。
99.妙観寺跡(佐世保市牧の地町)
皆瀬から吉井へ妙観寺経由のバス通りがありますが、妙観寺峠バス停よりはかなりかなり皆瀬寄りのところに、古い墓があり、雑木林のところは昔の寺跡と思えます。平戸にも妙観寺跡はあり、その関係は分かりません。昔の寺は草庵みたいなところで、何度も移り変わっているようです。
牧の地観音堂(佐世保市牧の地町)
牧の地(まきのじ)観音堂の奥は「牧の地牧場」があり、大きな乳牛が数百頭います。
100.
101.
102.
ここの3基はいずれも、砂岩製で傷みが激しいものばかりです。何度も移し替えられたのでしょう。すぐ近くに、緑泥片岩製の宝篋印塔がまとまってある古い墓地もあり、妙観寺がこの辺りにあったこともあるのかも知れません。
皆瀬から菰田水源地へ行く道の崖下の狭い道路わきに、中山観音堂はあります。新しいお堂もでき、説明板も真新しい文字が書かれています。佐世保市制100周年を記念して整備されたとのことです。六地蔵塔は完全な形で立っています。
96.中山観音堂2
こちらは、笠は平べったい石が載せられ、中台も紛失しています。こちらが古いものでしょう。
ここにある古い石塔は、佐世保の戦国史で有名な赤崎伊予守の墓と伝えられています。
97.菰田水源地横の六地蔵(佐世保市菰田町)
水源地が造られたり、道路が拡張されたりとこの辺りもずいぶん昔とは様変わりしていると思います。何度もお地蔵さんは移し替えられたと思いますが、安住の地で、前掛けをしてもらい、花や柴で飾られて安堵されていることでしょう。
98.野中阿弥陀堂(佐世保市野中町)
野中町の地蔵前バス停から上ったところに阿弥陀堂はあります。最近、新しく家が建ち始め、新興住宅地の観があります。
六地蔵さんは砂岩製で溶けかかっていますし、中台はさかさまのようです。
99.妙観寺跡(佐世保市牧の地町)
皆瀬から吉井へ妙観寺経由のバス通りがありますが、妙観寺峠バス停よりはかなりかなり皆瀬寄りのところに、古い墓があり、雑木林のところは昔の寺跡と思えます。平戸にも妙観寺跡はあり、その関係は分かりません。昔の寺は草庵みたいなところで、何度も移り変わっているようです。
牧の地観音堂(佐世保市牧の地町)
牧の地(まきのじ)観音堂の奥は「牧の地牧場」があり、大きな乳牛が数百頭います。
100.
101.
102.
ここの3基はいずれも、砂岩製で傷みが激しいものばかりです。何度も移し替えられたのでしょう。すぐ近くに、緑泥片岩製の宝篋印塔がまとまってある古い墓地もあり、妙観寺がこの辺りにあったこともあるのかも知れません。
2014年4月14日月曜日
92-94.相浦の六地蔵塔
92.心月寺跡(佐世保市相浦町)
心月寺は洪徳寺の右隣にありましたが、明治初期に廃寺となりました。平戸松浦鎮信(法印)が相浦を軍門に下すと、三男の九郎親(くろうちかし)を養子として入れますが、家臣の東甚助といさかいを起こし、刺し違えて二人は死にました。東一党と言えば、半坂合戦で平戸方の伝育坊を打ち取ったくらいの猛者です。傀儡政権とは折り合いが悪かったのでしょう。
宗金親が九郎親の菩提を弔うために建てたのが、心月寺だそうです。今は荒れ果てていますが、庭園跡や池などはそのまま残っています。その池の真ん中にしっかりした六地蔵塔は立っています。
この写真、塔の下に石で造られた、亀がいます。亀趺(きふ)といい、あまり見かけませんが、古いところにたまにあります。ここは今でも竹藪となっています。このままでは埋もれてしまいそうです。
竹林寺跡1(佐世保市新田町)
竹林寺跡はこのように多数の、五輪の塔や宝篋印塔と共に前面左右に六地蔵塔もあります。
ここも、宗金親によって建てられたと言われていて、母親や、早世した子女も葬られたそうです。
93.六地蔵塔1
左側のものは笠もなく、中台は宝篋印塔の、ものをあてがわれています。
94.六地蔵塔2
右側のものは、中台がさかさまに置かれています。それにしてもこんなに込み入って配置されているのは、後世、あちこちにあった墓地のものを寄せ集められた、ということでしょう。
この竹林寺も心月寺そして87の新豊寺も明治以降は現在の洪徳寺に統合されています。
心月寺は洪徳寺の右隣にありましたが、明治初期に廃寺となりました。平戸松浦鎮信(法印)が相浦を軍門に下すと、三男の九郎親(くろうちかし)を養子として入れますが、家臣の東甚助といさかいを起こし、刺し違えて二人は死にました。東一党と言えば、半坂合戦で平戸方の伝育坊を打ち取ったくらいの猛者です。傀儡政権とは折り合いが悪かったのでしょう。
宗金親が九郎親の菩提を弔うために建てたのが、心月寺だそうです。今は荒れ果てていますが、庭園跡や池などはそのまま残っています。その池の真ん中にしっかりした六地蔵塔は立っています。
この写真、塔の下に石で造られた、亀がいます。亀趺(きふ)といい、あまり見かけませんが、古いところにたまにあります。ここは今でも竹藪となっています。このままでは埋もれてしまいそうです。
竹林寺跡1(佐世保市新田町)
竹林寺跡はこのように多数の、五輪の塔や宝篋印塔と共に前面左右に六地蔵塔もあります。
ここも、宗金親によって建てられたと言われていて、母親や、早世した子女も葬られたそうです。
93.六地蔵塔1
左側のものは笠もなく、中台は宝篋印塔の、ものをあてがわれています。
94.六地蔵塔2
右側のものは、中台がさかさまに置かれています。それにしてもこんなに込み入って配置されているのは、後世、あちこちにあった墓地のものを寄せ集められた、ということでしょう。
この竹林寺も心月寺そして87の新豊寺も明治以降は現在の洪徳寺に統合されています。
2014年4月7日月曜日
87-91.本山付近の六地蔵塔
87.新豊寺跡1(佐世保市上本山町)
新豊寺は中里駅裏の山手にありました。16世紀後半に相浦の洪徳寺へ移されていますが、宗家松浦に縁の深い寺でした。ですから、ここには古い墓や石塔類が残されています。
この六地蔵塔の笠がなくなっていますが、竿石もひびが入り今にも崩れそうですが、ステンレスの針金で巻かれて何とか踏ん張っています。
88.新豊寺跡2
こちらは右隣にありますが、笠はかぶっているけど、竿がありません。かなり古い時代のもので、単制ということは考えられません。移し替えられた時の紛失でしょう。
89.犬堂観音1(佐世保市吉岡町)
犬堂とは、ここに鹿狩りに来ていた武士を、命に替えて大蛇から守った忠犬の物語から、この地に観音堂が建てられたと説明を受けました。しかし、果たして人間を襲うような大蛇がいたとは、眉唾ものです。
90.犬堂観音2
こちらは竿がなくなっていますが、同じころのものではないでしょうか。この堂の前を通る道は平戸街道でした。地元の人は、「殿さま道」とも呼んでいます。
91.八の久保墓地六地蔵塔(佐世保市八の久保町)
八の久保は山合いの集落で、民家は散在し、墓地もあちこち新しのから古いのまでたくさんあります。この六地蔵塔を見つけたのは、佐世保の歴史その他を毎日出されている、洗鱗荘ブログで古い供養塔を紹介された写真の中に六地蔵らしいのがあったので確かめに行き、見つけました。供養塔の部分はそのブログの記事から抜粋させてもらいました。
ここは伝育坊の墓と言われている石碑のすぐ裏手ですが、近所の農家の人に教えてもらい、田んぼの中の小道を通ってたどり着きました。古い墓が周りにありますが、荒れたままでした。
折れた板碑には文字らしいのがあるけど判読できませんが、ブログの説明では、松浦鎮信(法印)の配下として朝鮮出兵し、平壌で文禄2年(1593)に戦死した相浦城主松浦定の兵士、山奈賀源内の供養塔(1周忌に父親が建てた)だそうです。松浦定もそのとき戦死していますが、その供養塔は松浦市今福の項で述べています。
定公の墓は、相浦の金照寺にあり、そのとき戦死した兵士7人の名簿も同寺に残っているそうです。
新豊寺は中里駅裏の山手にありました。16世紀後半に相浦の洪徳寺へ移されていますが、宗家松浦に縁の深い寺でした。ですから、ここには古い墓や石塔類が残されています。
この六地蔵塔の笠がなくなっていますが、竿石もひびが入り今にも崩れそうですが、ステンレスの針金で巻かれて何とか踏ん張っています。
88.新豊寺跡2
こちらは右隣にありますが、笠はかぶっているけど、竿がありません。かなり古い時代のもので、単制ということは考えられません。移し替えられた時の紛失でしょう。
89.犬堂観音1(佐世保市吉岡町)
90.犬堂観音2
91.八の久保墓地六地蔵塔(佐世保市八の久保町)
八の久保は山合いの集落で、民家は散在し、墓地もあちこち新しのから古いのまでたくさんあります。この六地蔵塔を見つけたのは、佐世保の歴史その他を毎日出されている、洗鱗荘ブログで古い供養塔を紹介された写真の中に六地蔵らしいのがあったので確かめに行き、見つけました。供養塔の部分はそのブログの記事から抜粋させてもらいました。
ここは伝育坊の墓と言われている石碑のすぐ裏手ですが、近所の農家の人に教えてもらい、田んぼの中の小道を通ってたどり着きました。古い墓が周りにありますが、荒れたままでした。
折れた板碑には文字らしいのがあるけど判読できませんが、ブログの説明では、松浦鎮信(法印)の配下として朝鮮出兵し、平壌で文禄2年(1593)に戦死した相浦城主松浦定の兵士、山奈賀源内の供養塔(1周忌に父親が建てた)だそうです。松浦定もそのとき戦死していますが、その供養塔は松浦市今福の項で述べています。
定公の墓は、相浦の金照寺にあり、そのとき戦死した兵士7人の名簿も同寺に残っているそうです。
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