2014年5月19日月曜日

113-115.佐世保市中心地区

113.山中観音堂(佐世保市桜木町)



 桜木町バス停近くの、お地蔵さんは非常によく目につきます。赤い前掛けの他に腰巻(?)それに小さい一体型のお地蔵さんには赤い前掛けと帽子まで付けてあります。
 龕部もこれまで見た中では最も大きなもので、7仏が彫刻されています。
 現在の町名は「桜木町」ですが、佐世保村のころは山中免でした。明治35年に佐世保村が一足飛びに佐世保市になる時、山中免(桜木町、春日町)と横尾免(横尾町)、熊ケ倉免(赤木、田代町)などが市制に反対して、「佐世村」(東彼杵郡)となり、佐世保市はこの一部地区を分離して市制をひきました。
 当時は佐世保の外れだったのが、今では中心地と言えるところです。

114.光輪院(佐世保市名切町)



 名切グラウンドから坂道を登ると、光輪院というお寺があります。その入口の外、道路沿いに、きっちりとした六地蔵塔があります。年代が彫られていないので、分かりませんが、明治以降、大正の頃のものではないでしょうか。


115.冨田家(佐世保市長尾町)



 個人のお宅の庭に、珍しい石造物十数個と一緒にあります。
 冨田家は天正14年(1586)三川内の井手平城で討ち死にした岡甚右衛門の三男が武門を嫌って、早岐で商売を始め、その子孫は、佐世保浦で酒造業を営み繁昌して、見晴らしの良い、長尾町には別荘として建てられたものだそうです。酒造場は昭和20年の佐世保空襲で焼け、出荷を待っていた特級酒「烏帽子正宗」などが、佐世保川を炎をあげて燃えながら流れたそうです。
 この別荘付近にも、焼夷弾は落ちたそうですが、直撃を免れ、現在も残っています。この六地蔵塔は現当主の祖母に当たられる方が、明治年間に建てられたそうですから、像容もはっきりしています。
 なお、岡甚右衛門の子孫として、武門を継いだ方の人は、佐世保市内で「岡歯科」医院をされています。明治になる直前、平戸藩の郡代役所が、中里から佐世保へ移されますが、その場所に近いところです。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿